第534話 残滓
誰かが、自分の名を呼んでいる。何度も何度も、声が嗄れても呼び続けている。
リンは目を閉じたまま眉を寄せ、それからハッと我に返った。
「俺は、何を? それに……何だこれ」
目覚めてはいるものの、体を動かすことが出来ない。『呪い』との戦いで体が消耗しているからかとも思ったが、そうではない。
物理的に、動けないのだ。体が黒に近い紫色の膜に覆われ、更にその内側はスライムのような粘着質のものが詰まっている。そのスライム状の何かに包み込まれ、リンは目を覚ました。
意識がはっきりとすれば、現状を打破するために動く。その前に、リンは己に何があったのかを思い出した。
(『呪い』に襲われて、腕に包まれて気を失ったんだ。そして、誰かが呼んでくれたから、俺は目覚められた)
しかし、目の届く範囲に自分以外の生き物はいない。いるのは、リンを確保した袋に繋がった体を持つ『呪い』のみ。人型となった『呪い』はリンが目覚めたことに気付き、膜越しに彼を見てニタリと嗤った。
「――、――」
何かを言っているらしいが、リンには全く聞こえない。それを良いことに、リンは『呪い』を無視してこの場を脱するための方法を考えていた。
(この膜と絡みついて来るこれをどうにかしないとな。……くっ。時間もなさそうだ)
自分の腕を上げることも出来ないが、痛みで毒が何処まで回って来ているかは判断可能だ。右腕を幾何学模様が包み、手の指一本一本に至るまで刺青のように痣が浮かんでいる。更に胸へと広がり、もう少しで左腕へと届くだろう。
(おそらく、体全体に痣が広がり切れば……俺は死ぬな)
考えたくもない未来に、リンの思考が凍りかける。それでも奥歯を食い縛り、拳を握り締めた。
(こんなところでくたばってたまるか。俺は、まだやりたいことがある。伝えられていない言葉がある。大切な仲間と、あいつと。……え?)
不意に体が熱を発し、リンは目を見開く。熱は決して火傷しそうに熱くなく、むしろ温かく優しい。枯渇しかけていた魔力が徐々に回復していくことを感じ、リンはその熱の正体に気付いた。
「あき、ほ? それからジェイス、さん……なのか?」
全てを包み込むような優しい光と、背中を押してくれるような強い光。その二つの力が、自分の中へと注がれている。それに気付き、リンの中で何かが弾ける。
「……行くぞ」
二人分の魔力が加わり、リンの左の手のひらから強い光を放つ剣が現れた。それは絡まろうとするスライムを斬り進み、リンの手に掴まれる。
膜の外にいる『呪い』が体を逸らした。痛むのか、リンを捉えた腕をわななかせている。
リンは今がチャンスとばかりに、剣へと魔力を最大限に伝えた。そして、晶穂たちのお蔭で動く右手を添え、横薙ぎに剣を振る。
――スパンッ
「ギャアアアアァァァァァァァッ」
膜を断ち切ると同時に『呪い』が断末魔のような悲鳴を上げ、のたうち回る。
斬られたことでスライム状のものは溶けて消え、リンはようやく自由になった。立ち上がると、暴れる『呪い』に向かって剣の切っ先を向ける。
「わかっただろう、お前は……お前たちは俺たちに勝てない。もうそろそろ、目覚めさせてもらうぞ」
「――ケケッ」
転げ回っていた『呪い』は、何を思ったか動きをぴたりと止めてリンをじっと見詰めている。その感情のない目に臆することを止めたリンは、もう一度剣に魔力を籠めた。
「これで、終わらせる」
「おワらせなイ。イザードのノろい、おマエをくじかせル」
「挫けない。俺たちは、必ずお前の野望を打ち砕く」
それ以上、『呪い』の言葉に耳を貸す必要はない。リンは大きく深呼吸すると、『呪い』に向かって斬撃を放った。
同時に、『呪い』もまた無傷のもう片方の腕を振る。ただ斬られただけでは復活する腕を使えば防ぎ切れる、そう考えたのかもしれない。
しかし、『呪い』の思惑はあたらなかった。
リンの剣が彼自身の魔力の色である深みのある青のみならず、淡い白の光をまとっていたからだ。白い光はつまり、神子の魔力を意味する。
邪のものにとって、聖の力は敵。光の刃が『呪い』の腕のみならず、本体をも斬り裂いていく。
「ギ……?」
「――消えろ」
リンと『呪い』の姿が交差する。体が千切れ、『呪い』は今度こそ死を知ることになった。声にならない叫び声を上げ、体が崩れていく。
「こノ、やろウ」
「……そのまま眠れ、永遠に。お前を創り出したイザードも、必ず俺たちが倒す」
激痛を発する右腕を左手で掴みながら、リンは消えていく『呪い』を見下ろす。少しずつ眠気が襲って来ているのは、夢の世界の終わりが近いことを意味しているのだろうか。
もう既に、『呪い』の姿は顔を残すのみ。リンは油断せず、『呪い』が完全に消えるのを見詰めていた。サラサラと砂のように消えていく『呪い』は、しかし最後に口を残す。
「……ノロイ、オワラヌ。タネヤドシモノ、トキキタリテシス。オマエ、ゼツボウニシズメ」
「打ち克つ。必ず」
リンは『呪い』の言葉を撥ね付けるように言い放つ。そして歪んだ唇が塵になるのを見届けると、その向こうに見えた優しい光の方へと歩いて行った。
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