第487話 ユキの苦悩と物音

 時間は少しだけ巻き戻り、リンたちが出掛けている間のこと。

 ユキは布団の上で痛みを発する痣に耐え、不自然に拍動する胸の奥を堪えていた。

 時間が経つ程に、何故か銀の華への恨みや怒りの感情が沸き上がる。しかしそれはユキにとっては意味不明であり、抗うだけで必死だ。

 冷汗か脂汗かわからない程に汗が噴き出し、心臓の音が耳の奥から聞こえてくる。

(どうして、ぼくがぼく自身を、兄さんたちを頭ごなしに否定する必要がある? こんな感情、ぼくのものなんかじゃない!)

 否定すればするほど、痛みは強くなる。まるで、負の感情へ身を任せればお前は解放されるとでも言うかのように。ユキを誘惑する。

「う、ぁ……」

「ユキ? どうしたの、ユキ!?」

「はる、なお」

 一緒に雑魚寝していた春直がユキの異変に気付き、慌てて肩を揺さぶる。それに対し、ユキは彼の名前を呼ぶだけで精一杯だ。

 二人の様子に気付き、ユーギと唯文も身を起こす。唯文が目で助けを求める春直に頷き、ユキの顔色を窺う。額に手のひらを当てると、じんわりとした冷汗と体温の低下を感じた。

「顔、真っ青だ。待ってろ、今団長を……」

 唯文が振り返ると、ユーギが首肯した。今まさに彼が走り出そうとした時、一際大きな声が響く。

「待って! 駄目だ、呼ばないで」

「呼ぶなって……。そんな顔して言うことじゃないだろ」

 困惑顔の唯文に、ユキは首を横に振ってみせた。

「でも、駄目だよ。兄さんは今、サーカス団のことで忙しい。ぼくは、大丈夫だから。まだ、大丈夫」

「ユキ……」

「お願いだよ。せめて、明日の朝まで待って。今呼んでしまったら、手がかりが……」

「ユキ!」

 突然気を失ったユキをユーギが呼ぶが、ユキは苦しげに眉間にしわを寄せるだけで目を開けない。唯文がユキの口元に手を持っていくと、わずかに乱れた呼吸を感じられた。

 ほっと息をつき、唯文はユーギと春直に何とも言えない安堵に近い表情を向ける。

「寝てるだけだ」

 唯文の言葉に、春直は胸を撫で下ろす。

「そっか。でも、大丈夫なんかじゃないよね」

「うん。ユキはせめて朝になってからって言ったけど、そんな悠長なこと言ってられないんじゃ」

「おれもそう思う。だけど……ユキの気持ちもわかる」

 今団長を呼べば、間違いなくとって返して来るだろう。しかしそれでは、折角のチャンスを逃す可能性があった。

 ユキの言い分を理解して、三人は動くことが出来ない。

「すぅ、すぅ……」

 やがて規則正しい寝息が聞こえ始め、三人はほっと息をつく。するとユキに感化されたかのように、ユーギと春直も大あくびをした。

 二人の様子を見て、唯文は苦笑を浮かべる。

「二人共、朝まで寝ちまえよ。団長たちも、おれたちが寝てても何も言わないだろうさ」

「そう、だけど……今何が起こってるのかもわからないのに。安心して眠れ……ふあぁぁ」

「でかいあくびだな、春直」

「ううっ。眠気には勝てない、かも」

 春直は嘆くが、目はとろんとして眠そうだ。ユーギはといえば、既に船をこぎ始めている。

「団長たちに、おれらはユキと一緒にいることを頼まれたんだ。だったら、ここにいてやるべきだろ?」

 おれもすぐ寝るから。唯文が不器用に微笑むと、ユーギと春直は頷きずるずると布団の上に倒れた。ユキを真ん中にして、三人が川の字になる。

 やがて三人分の寝息が耳に届き、唯文は自らも三人の横に寝転がる。隣には春直がいて、唯文は戸に一番近い布団の上だ。

(ここなら、誰かが部屋に入って来ても三人を守れる。少なくとも、時間稼ぎは出来るからな……なんて思っちゃいるんだけど)

 年少組と呼ばれる四人の最年長。それが、唯文の立場だ。攻撃力という面では他の三人に劣るが、リンに憧れる唯文は差を埋めるための努力を惜しまない。毎日のように日本刀を扱う練習を繰り返すため、手には肉刺まめがたくさん出来ている。

「……?」

 証明を消した暗闇の中、ぼんやりとユキたちの寝息を聞いていた唯文は、何処からか物音が聞こえるのを耳にした。大きな白い犬の耳を立て、周囲を警戒する。すると三人の寝息と自分自身の心臓の音の他、耳障りな喚き声がを捉えられた。

(団長たち、誰か捕らえたのか?)

 一度気になると、寝ている場合ではない。

 唯文は三人を起こさないよう、そっと布団を出た。そして滑り出るようにして部屋を後にすると、リドアスの玄関ホールへと向かう。

「……嫌だ。兄さん、助け……て」

 唯文がいなくなった部屋で、ユキの苦しげな寝言が浮き上がって消えた。


 同日夜半。部屋に戻って来た唯文は、三人が仲良くくっつき合って眠っているのを見て表情を緩ませた。

「かわ……こほん。おれももう一眠りしよう」

「唯文兄」

「春直、起きてたのか」

 思わず零れかけたらしくない言葉を呑み込み、唯文は三人を起こさないよう細心の注意を払う。体を布団に滑り込ませようとした矢先、目を開けた春直に呼ばれる。

 驚く唯文に苦笑を見せ、春直はそっと眠るユキに目をやった。

「ユキ、何度かうなされてるんだ。冷汗かいてることもあって、やっぱり痣が関係してるのかな?」

「……明日の朝、団長たちから説明されると思う」

 唯文の言葉に、春直は目を瞬かせた後に困ったように笑った。

「さっきまでずっと聞こえてた、あの物音と関係あるの?」

「あるよ。……そうだよな。あれだけ騒げば起きるに決まってる」

「ほんとはユーギも起きたんだけど、明日聞くって言って無理矢理寝ちゃった」

「そっか」

 唯文は近くで目を閉じているユーギの頭を軽く撫でた。耳がピクピク動いているのは、目が覚めている証だろう。

 敢えて、それには触れない。唯文は春直も促して寝転がった。

(大切な友だちを、仲間を傷付けられて、黙っていられない。必ず、真実を突き止めてやる)

 傍の三人の体温を何となく感じながら、唯文はそう決意を新たにした。

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