第480話 二度目はない
たったったっと足音が廊下に響く。
(リン、一体何処に……)
玄関ホール近くの会議室を出て、もう既に五分は経過していた。晶穂はただ一人で何処かにいるはずのリンを探し、リドアス内を走り回っている。
息を切らせ、散りそうになる思考をまとめるために一度足を止めた。呼吸を整えながら、リンが行きそうな場所を考える。
「リンが、考え事をするなら……。部屋? ううん、そこは先に見た」
ならば、何処か。
晶穂は熟考した上で、ある場所へと向かった。室内にはいない。であるならば、外しかあり得ない。
「リン……」
「え……」
晶穂が辿り着いたのは、いつも鍛錬を行なっている中庭。その端にあるブランコの一つに、リンが項垂れて腰掛けていた。
彼の頬には涙の痕が見える。リンは晶穂の姿を見て、大きく目を見開いた。
「――っ、どうして」
「あの、ごめんなさい。リンが会議室を出て行く時、泣いている気がして、追いかけて来たの」
「ごめん。謝らせるつもりはなかったんだ」
涙を手の甲で拭き、リンは苦笑をにじませた。
「泣き顔を見せるつもりなんてなかったのにな。本当に……お前には敵わない」
「敵わないのは、わたしの方なんだけど」
晶穂はブランコに座るリンの前に立ち、そっと彼の手に自分の手を重ねた。驚き顔を赤くするリンの表情を見詰め、晶穂はドキドキとおさまらない心臓の鼓動を聞く。そして震えそうになる声をどうにか正しながら、リンに語り掛けた。
「リンは……きっと、幼い時のことを思い出したんじゃないかなって思ったの。ユキと離れてしまった時のこと」
「……」
「あの痣に何があるのか、どうなるのかはわからない。だけど、もう二度と、ユキを失うわけにはいかないよね」
「……当たり前だ。もう二度と、二度と大切なものを失ってなんかなるものか!」
「きゃっ」
リンは手をブランコの縄から滑り下ろすと、目の前の晶穂を抱き締めた。言葉通り、二度と失いたくないという意志が籠められた腕の温かさが晶穂を包み込む。
(わたしも、大切な友だちを失いたくない)
どちらのものともわからない心臓の音を聞きながら、晶穂はリンの背中にそっと手を回した。
その夜、ユキは一人で自室のベッドに腰を下ろしていた。寝間着代わりのシャツを摘み、中を覗き込む。
「やっぱりある、よね」
濃い黒色のペンで描かれたような八重の花。不吉な印であることは間違いないが、ユキはこの痣についてどう考えれば良いのかわからずに戸惑っていた。
「……。兄さんたちが調べてくれるって言ってた。だからぼくも、手伝わないと。もしかしたら、何か出来るかも知れないから」
考えをまとめるために声を出し、うんと一つ頷く。方針を定めることは出来た。
その時、コンコンコンと部屋の戸が叩かれる。次いで聞こえてきたのは、遠慮がちな兄の声だった。
「ユキ、起きてるか?」
「兄さん? 起きてるよ、入って」
戸を開けて大好きな兄の顔を見、ユキはほっと肩の力を抜いた。
リンを部屋に入れ、ユキは首を傾げた。もう時計は夜の十時過ぎを示している。こんな時間に、兄は何の用だろうか。
「何かあった?」
「あったのはお前だろ。昼間の詳しい話を聞けたらと思ってな。こんな時間だけど」
「それは良いよ、眠れそうにもなかったし。それで、何が訊きたいの?」
ユキが改めて首を捻ると、リンは軽く眉間にしわを寄せた。
「ユキは、サーカス所属の歌姫の歌を聴いて、危ないと思ったって言ったよな。それは、どうしてだ?」
そのまま歌を聴いていることも可能だっただろう、とリンは言う。
「今だからこそ、歌姫の歌には何か仕掛けられていたんだとわかる。ユキは、聴いた時に何を感じた?」
「……歌に乗せて、魔力がテントの中に散っていくのを感じたんだ。見えはしないけど、気配で。その魔力に対して、ぼくは『怖い』って思った」
「『怖い』か」
「そう。とっても綺麗な歌声で、観客はみんな聞き惚れてた。……まるでその様子が、歌姫によって心を操られて自我を失っているように見えたんだ」
「……他人の心を操り、思い通りにするための布石、か」
あり得ない話ではない、とリンは腕を組んだ。魔力の可能性は無限に近く、魔力を創り出すことが出来ると知るリンにとって、ユキの考えは夢物語と笑えない。
「たぶん、気のせいじゃない。ぼくに痣が表れて、ユーギたちにはなかった。今日サーカスを見に行った人たちを調べられれば、共通点が見えてくるかもしれない」
「……わかった。ありがとな、ユキ。その線で、明日から調べてみよう」
ぽんっと弟の頭を撫で、リンは微笑んだ。
「また何か思い出すことがあったら、いつでも教えてくれ。俺でなくても、ジェイスさんや克臣さん、晶穂でも良い。勿論、お前の仲間たちでもな」
「うん」
おやすみ。そう締めくくり、リンは弟の部屋を出た。
(兄さんがいるから、仲間がいるから。ぼくは大丈夫)
兄と話したことで落ち着きを取り戻し、ユキは大きな欠伸した。無意識に緊張が取れていなかったのか、と自らを苦笑する。
照明を消し、ユキは目を閉じた。
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