悪夢の兆し

第478話 痣

 夕刻となり、リンは整理し終わったファイルを本棚に片付けて息をつく。机に向かっての仕事は以前からそれ程好きではなかったが、こう半日近く続くと本格的に嫌気がさす。

 うーんと伸びをしたリンの前に、冷たい紅茶の入ったコップが置かれた。顔を上げれば、晶穂が微笑んで立っている。

「晶穂」

「リン、お疲れ様。町で美味しそうな紅茶の茶葉を見付けたから、買ってみたの。一緒に飲も?」

「ああ。丁度、喉が渇いてたんだ」

「ならよかった」

 小さく笑った晶穂に促され、リンはコップを手に取る。良い塩梅の温度に冷えた紅茶は、疲れた体に染み渡っていく。

 ほっと息をつくリンの隣に腰掛け、晶穂も同様に紅茶に口をつけた。

 柑橘類を混ぜた茶葉は色鮮やかで、香りも爽やかで申し分ない。よく眉間にしわを寄せて仕事に没頭しているリンを見ている晶穂は、リンが少しでも穏やかな時間を過ごせるようにと心を砕く。

「お仕事、忙しそうだね。わたしにも出来ることはある?」

「晶穂にも色々仕事は回してるからな、助かってるよ。ジェイスさんや克臣さんにはまだ敵わないけど、俺も俺が出来る限りのことはやりたい。……忙殺されそうになっても、こうやって気にかけてくれるから、大丈夫だ」

「リン……わたしも、役に立ってるのかな」

 晶穂は膝の上でコップを掴む手に力を入れ、問いかける。

「両親を亡くして施設で育ててもらって、大学でリンに出逢って……自分が後天性吸血鬼の娘だと知って。神子だと言われて、聖血の矛をこの身に宿して。治癒の力を使えるようになったけど、それでも、それでも自信は持てないの」

「……」

「わたしの力は、あの時無理矢理目覚めさせられた。……だからなのかな? 何度も何度も、リンたちに『大丈夫』って認めてもらってるのに、おかしいよね」

「おかしい、とは、俺は思わない」

 リンは晶穂の潤む瞳を真っ直ぐに見詰め、不器用に微笑む。右腕を上げ、晶穂の長い髪を優しくすいた。

「晶穂しかいないから言うけど、俺はずっと晶穂に支えられてるんだ。帰りたいって思える場所があるから、俺はここにいて良いんだって信じてるから。……だから、自信を持てとは言わないけど、独りじゃないんだと信じてくれ」

「リン……、ありがとう。か、彼氏にそんなことを言ってもらえるなんて、幸せだね」

「ふふ、彼氏か」

 彼氏と彼女。たったそれだけの言葉が、リンと晶穂の心をくすぐる。

 面映ゆくて目を逸らしたリンは、ふと壁にかかった時計を見た。

「もうすぐ、ユキたちが帰ってくるな。腹空かせて帰ってくるんだろ」

「だと思って、今日は多めに用意してあるんだよ。楽しみだね、サーカスの話」

「ああ」

 もう少し仕事を片付けるというリンの部屋を出て、晶穂は夕食の準備を手伝おうと食堂へ向かった。


 それから十分程後、リドアスの戸が乱暴に開けられた。

 物音を聞き付けたジェイスが会議室から出ると、息を切らせている四人組の姿が目に入る。尋常ではない様子に、ジェイスは目を見開いた。

「どうしたんだい、そんなに慌てて?」

「あ、ジェイスさん。大変なんだ、これ見て!」

 挨拶もそこそこにユーギに腕を引かれ、ジェイスは残り三人が立つ玄関ホールの端へと連れていかれた。連れていかれた先には、顔色の悪いユキが立っている。

「ユキ? 顔が青いが、何かあったのかい」

「ジェイスさん……ぼく、どうしよう」

「大丈夫。まずは落ち着こう」

 今にも泣き出しそうなユキをなだめ、ジェイスは彼に深呼吸を促す。するとユキだけでなく、春直と、唯文までもが大きく呼吸した。

「……今日はサーカスに行ってきたんじゃなかったかな。そこで、何かあった?」

「はい。実は……」

 目を彷徨わせた後、ユキは意を決して話そうとした。しかしその様子に、ジェイスは自分一人で聞くべきではないと思い直す。ユキの言葉を手で制した。

「いや、待って。これは、リンや克臣もいた方が良い話だろう? 彼らを呼んでくるから、四人は……そうだな。わたしがいた会議室で待っていてくれ」

「わかりました」

 代表して唯文が頷くと、ジェイスは駆け足で二人を探しに行く。四人は頷き合い、指定された場所へとすぐに向かった。

 四人が会議室に入って五分後、ジェイスはリンと克臣、そして晶穂を連れて戻って来た。誰かが帰宅した物音は全員が聞いており、皆玄関ホール近くにいたのだという。

「今日買って来た紅茶があるんです。クッキーもあるので、よかったら」

 緊迫した雰囲気を感じ取り、晶穂が事前に準備していたお茶セットをトレイに乗せて運んで来た。それが各自の前に置かれることで、少しだけ場が和む。

「……ユキ、四人共。話せることからで良いから、一つずつ話してくれないか? 俺たちはお前らがただサーカスを楽しんで来ると思っていたから、そんな顔をされていると戸惑っているんだ」

「どんな顔してるの、ぼくたち?」

「凄く困っていて、不安そうに見えるな」

 自らを指差すユーギに、克臣が応じた。そして、ちらりと唯文に目をやる。

 唯文はこれも自分の役割だと頷き、サーカスのテントに入るところから話し始めた。

「……おれたちは受付を済ませ、テントに入りました。しばらくして公演が始まって」

 見事な技の数々に拍手を送り、歓声を上げた。そこまでは、ただただサーカスを心から楽しむ素晴らしい時間を過ごしていたのだ。

「でも、最後のパフォーマンスである歌姫の歌が始まった時、ユキが言ったんです。『今から、ここを出よう。このままじゃ危ない気がする』って」

「危ない? どういうことだ、ユキ」

 リンに尋ねられ、ユキはようやく「これを見て」と言ってシャツを胸までまくり上げた。全員の視線がそこに集まる。

「……は?」

 思わず声を上げたリンは、眉間にしわを寄せた。

 丁度鎖骨の間に、見慣れない黒い痣がある。バラのような、花びらが幾重にも重なった花に似ていた。

「あの歌を耳に入れてしまったから、歌に籠められた魔力が作用したんだと思う」

 ユキは青い顔をしたまま、痣をさすって呟いた。

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