第三部 呪花編

不穏な空気

第470話 はじまりの種

 さくさくさく。

 広大な草原を、森の傍を流れる川岸を、一人の女が歩いていく。

 彼女の長く伸びた髪は、光の加減によっては藍色に見える黒色。鼻歌を歌いながら開かれた瞳は、深海のような深い青。身に着けているのは純白のドレスで、黒のボレロを羽織っている。胸元には、花の装飾が施されたロケット付きのペンダントが光っている。

 女は月の光に照らされ、女神のように艶やかな美しさを放つ。おそらく、男であれ女であれ、彼女の姿を見た者は息をするのを忘れるだろう。

 踊るように歩く女の唇からは、やがて歌が零れ始める。


 ──銀色の花、尊き花よ

 我が願いをば、叶えたまえ

 永久を生きんともがく我を、救いたまえ、褒め称えたまえ

 ただ我の行く手を遮るものは、駆逐したまえ

 破滅したまえ


 毒々しくも美しき花よ

 この世の理を説きたまえ

 銀色の花、尊き花よ

 その名を持つ者たちに鉄槌を

 彼の者たちに、血の破滅を

 我は運命

 全てを正し、導く花


 とうとうと紡がれる旋律は、夜の闇へと消えていく。女は幼き少女のような無邪気な微笑みを浮かべながら、ただただ進む。

 そしてようやく、夜明けを迎える頃。女は目的地へとたどり着いた。

 裸足の足の裏は土や泥で汚れ、血がこびりついている。しかし女はそんなことには目もくれず、目の前の風景へと思いを馳せる。

「美しい、銀色のさざ波」

 女の目の前には、銀色の花畑が広がっている。その傍に膝をつき、女は一輪の花に手を伸ばす。

 しかし花を手折る前に、花は色を変えて枯れてしまった。茶色く変色して折れ曲がる花に、女は「おや」という顔をした後、くすりと笑う。

「相容れないもの、真逆のもの。触れ合えばそこに、歪みが生まれる」

 他の花には手を伸ばさず、女は音もなく立ち上がる。そしてゆっくりと歩を進めると、花畑から少し離れた空き地に目を向けた。

 空き地には不自然な砂地があり、そこだけには何も生えていない。まるで、そこに女が行くべきだという道標みちしるべであるかのように。

 女は素足の見えない白いドレスをさばき、その小さな砂地の前に腰を下ろす。そして、ペンダントのロケットをパチンと開いた。

 ロケットの中に入っていたのは、植物の種。何の変哲もないその種は、しかしどこか怪しげな雰囲気を持っている。

 女はその種を摘まみ、口づけた。そして、白く長い指で砂地を躊躇なく掘り、種を埋める。近くに川はなく、水をやることは出来ないはずだった。

「後は、肥料と水」

 呟き、女は先程枯らせた銀色の花の元へと足を向ける。そして枯れたそれを手折ると、また種を植えた場所へと戻った。種の上に花弁の中央を向け、垂らす。

「……尊き花よ、憎き花。その蜜を種へと恵みたまえ」

 女の言葉に応じるように、枯れた花がブルブルと震えた。

 震えた花の中央から、透明な何かが滴り落ちる。それは、枯れた花から生まれるはずもない花の蜜だった。

 滴り落ちた蜜が種の埋まった土を濡らし、女は満足げに微笑む。

「これで、支度は整った」

 女は呟くと、立ち上がってその場を去る。一度も振り返らずに真っ直ぐ前を見詰める彼女の瞳には、一切の光がなかった。

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