第435話 異種間の情

「かはっ……」

 ベアリーの体を倒し、ジェイスが彼女の両腕を地面に押し付ける。さらりと銀色の髪が顔にかかり、ジェイスの容貌の良さが際立った。

「は、離せ」

「克臣から魔犬を離す方が先だ」

「───っ」

 ぞっとするほどの低音が、ベアリーの耳を侵す。ジェイスの瞳は、さざ波すら立たない静かな湖畔のようだ。ジェイスの手の力は強くも弱くもないが、全く動かすことが出来ない。

「……魔犬」

 抵抗を諦め、ベアリーは力なく魔犬に呼び掛ける。魔犬は戸惑いを目に浮かべた後、そっと克臣の腕から牙を抜いた。

 魔犬の牙には、克臣の血液がベットリと付着している。それを舐め取った魔犬は、未だにベアリーに覆い被さっているジェイスに向かって唸り声を上げた。

「……黙れ」

「ヒャン」

 しっぽを後ろ足の間に入れ、及び腰になる魔犬。ベアリーからは見えないが、漆黒のオーラをまとったジェイスの声色に、鳥肌が立つ。

 それでも主を守ろうと、逆立った毛を振って唸る魔犬は立ち上がる。そんな魔犬の忠誠心に、ベアリーは胸が潰れそうだった。

「魔……アスラ」

 魔犬に、本来名はない。しかし幼い頃にそれを知らなかったベアリーは、たった一頭の魔犬にアスラと名をつけていた。

 大人になってその名を呼ぶことはなくなっていたが、無意識のうちに口からこぼれ落ちていた。

 アスラはもう覚えていないだろうと思ったが、ベアリーに呼ばれて耳をピクッと動かす。じっとベアリーと目を合わせ、フンッと鳴いた。

「……もう、大丈夫かな」

「え……」

 ベアリーにかかっていた重みがなくなり、ジェイスが彼女の上から去ったことを知る。慌てて上半身を起こして座ったベアリーの傍に、アスラが寄り添う。スンスンと鼻を押し付けられ、ベアリーはアスラの頭を撫でてやった。

 それから、克臣の傷の具合を診ていたジェイスに目を移す。

「全く、無茶をする」

「いってぇ。……だってこれくらいしないと、気をそらすなんて出来ないだろうが」

「だからって。真希ちゃんが泣くぞ」

「うっ……それを言うな」

 目をそらす克臣と笑うジェイス。この隙を突いてしまえば殺すことも可能だろうが、ベアリーは既に戦意を喪失していた。

 記憶の何処かにちらつくものも含め、この二人には勝てないと本能が言うのだ。既に腰に佩いた剣を取る気にもならない。

「おや、殺さないのかな?」

「───っ」

 いつの間にかこちらを向いていたジェイスが、ベアリーに問う。一瞬言葉に詰まったベアリーだったが、ふるふると首を横に振る。

「殺すのは、止めた。というより、土台無理な話だとわかったからな」

「そう。わたしたちとしてもきみたちと殺し合うのだけは避けたかったから、大歓迎だけどね」

「ああ。銀の華のプライドがあるからな。って、痛いぞ、ジェイス」

「我慢しろ、克臣」

「へーへー」

 包帯を腕に巻かれながら、克臣は笑う。

「……何故、私を殺そうとしない?」

 ベアリーは、ぽろりと唇から滑り落ちた疑問を呈した。目の前の二人がきょとんとした顔をして、自分の顔を見ているのがわかる。

「何故、邪魔になるとわかっていて殺そうとすらしない? 目的のためには手段を選ばない、のが戦士だろう!?」

 言葉が詰まる。自分が泣きながら叫んでいるのだと自覚したが、ベアリーは止まらない。否、止まれない。

「わ、私はっ、そうやって教えられ、生きてきた。仕えるべき女王様のめいならば、敵と認識すれば、無意識にでも殺せる。……なのに、それだけの力があるのに、どうして私を生きさせる?」

「あなたにも生きる理由があるだろう? それと同じだよ」

「っ」

 顔を上げれば、黄金と焦げ茶の瞳が二対、こちらを見下ろしている。そこに敵意はなく、むしろ聞き分けのない子どもをあやす兄や父のような温かさがあった。

「ベアリーつったか。あんたはスカドゥラ王国の女王に忠誠を誓い、彼女の言葉が国を守るために必要だと信じて動いているんだろう? その心を否定も肯定もしないが、俺たちもまた、信じるもののためにここにいるんだ」

「信じるもの」

 毒気を抜かれ、呆然と座り込むベアリー。彼女の耳に、克臣と交代したジェイスの言葉が滑り込む。

「わたしたち銀の華は、決して人を殺めない。その殺した手で、大切なものに触れられないからだ。……この考え方はわたしたち特有のものだろうから、押し付ける気も更々ないけどね」

 一度言葉を切り、ジェイスは口を開く。

「きみとわたしたちは、初めて会ったわけじゃない。だけど、その記憶を無理に思い出さなくても良いだろう。……きみたちには、神庭に踏み入れさえさせないから」

「お前たちは、宝が何かを知って……?」

 踵を返し去ろうとする二人に、ベアリーは問う。それだけでも知りたい、と願うような気持ちだった。

(女王様の求めたものの正体、せめて知っているのなら)

 必死なことが伝わったのか、ジェイスはふっと口元を緩めた。

「小さな女の子だ。彼女は、世界の命運を左右する。……だから、決して渡さない」

「おんな、のこ」

 ふっと、幼い自分と重なる。立場も何もかも違うが、重圧に耐える少女の姿を見た気がした。

「あんたの魔犬、あんたのことが大好きなんだな。……大切にしてやれよ」

「え」

 ジェイスに続いて、克臣が柔らかな笑みを浮かべて魔犬を指差す。驚いてベアリーが隣を見れば、しっぽを振って彼女に甘えるアスラの姿があった。

「アスラ……」

「わふっ」

 黄色い目が、戦闘時とは違う丸い形に変わっている。魔犬が滅多に見せないという、主に心全てを許した表情だ。

 その時、周りにあった他の魔犬の圧が急速に遠退いた。ベアリーはやはり不合格かと肩を落としたが、次の瞬間には目を見張った。

「魔犬が」

 ベアリーの周りには、威圧感のない普通の黒い犬のような魔犬が集まっていた。それが意味するところを知り、ベアリーは困惑と共に笑みを見せる。

「認め、られた……。でもどうして?」

 理由はわからないが、ベアリーは魔犬たちに主と認められたらしい。その選定基準はやはり不明確だったが、それでも良いかと思い直した。

「まるでふれあい動物園だな」

 少し離れたところから、克臣がベアリーたちの様子を見て笑う。ジェイスは同意しつつ、ベアリーの今後に思いを馳せた。

「彼女たちを追い返しても、女王が諦めなければ繰り返される。さて、どうしたものかな」

「ジェイスさん、克臣さん!」

「おっ、ユーギじゃないか」

 ベアリーと魔犬たちを放置してリンたちの元へと戻ろうとしていた二人の前に、ユーギが顔を出した。見れば、彼の他に春直がいる。唯文とユキは一緒ではなかった。

「お前ら、やることは終わったのか?」

「一応は、ね。特に向こうに動きもないから、待機してるんだ」

「で、時間はありそうだから克臣さんたちの所に見に行こうかってなりました」

 唯文とユキは見張りに残ったという。ならば、とジェイスは春直の頭を撫でた。

「ベアリーは無力化したから、もしかしたら動きがあるかもしれない。戻って警戒してくれるかな?」

「わかりました」

 ユーギと春直が何処かへと去り、ジェイスと克臣は顔を見合わせる。

「リンと晶穂なら心配ないとは思うが……」

「まあ、一応報告も兼ねるか」

「そうだな」

 二人は頷き合うと、弟分たちがいるであろう元の場所へと戻っていった。

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