第420話 姫神の木

 何者かによって構築された結界を破り、リンたちはその内側へと足を踏み入れた。

「うっわぁ……」

 ユーギの口が開く。ポカンと周りを見渡したのは、彼だけではない。

「同じ森だけど、何か違う?」

「別世界みたいだな……」

「うん。とりあえず、綺麗としか言えないね」

 ユキ、唯文、春直がそれぞれに感想を交わす。ジェイスと克臣、リンと晶穂も思わず景色に見とれた。

 そこは、清浄な空気の流れる森の中。さわさわと吹き抜ける風になびく青々とした木の葉、その根本にはピンクやオレンジ色の花々が咲く。

 地面には花の他、背丈の低い名もない草がびっしりと芝生のように生えている。何処からか水の流れる音が聞こえるため、川があるのかもしれない。

 青空に白い雲が映え、遠くで鹿か何かが鳴く声がした。

「ここが、神庭……?」

 ごくっと喉を鳴らし、リンは誰とはなく問う。しかし、それに明確な答えを出せるものはいない。

「そう考えていい、と思う。これほど綺麗な空気と風、感じたことない」

 深呼吸し、晶穂は微笑んだ。ここでは物騒なことは起こらないのではないか、と淡い期待が生まれる。

 それでも、油断は出来ない。深く息を吸って吐き、ジェイスは周囲の警戒を怠らない。

「ここでじっとしていても始まらない。進んでみよう」

「だな。ふっと女神と出会うかもしれないし」

 いつものごとく軽い調子で言い、克臣は先頭を行く。彼の後をユーギが追った。

「全く……。リン、女神ヴィルはおそらくこちらに気付いただろう。ここは彼女の領域だろうし、わたしたちは異分子だ。何があっても良いように、その覚悟だけはしていて」

「はい」

 ジェイスの言葉に短く応じると、リンは克臣とユーギが手を振るのに応じて歩き出した。その後に、ジェイスや晶穂たち残りのメンバーが続く。


「来た、か」

 ヴィルは巨木に語りかけていたが、それをやめて顔を上げた。彼女の張った強固な結界が一部壊され、複数人が侵入したようだ。それが何者かは見えないが、気配から察するに銀の華だろう。

 天也と甘音はまだ戻ってきていないが、それほど遠くには行っていない。彼らは彼女に会えただろうか。

 気配を探れば、庭の最奥からこちらへと向かっているらしい。

 ふと、二人の気配の方向が変わった。彼らが向かう方向を推測し、ヴィルは苦笑いをする。

「出会うべくして、ということかしら」

 身を翻し、ヴィルは巨木に背を向けた。唇に指をあて、指笛を鳴らす。

 しかし、その音は聞こえない。あるものへしか聞こえない、特別な笛なのだ。

 何処からか、翼の羽ばたく音が響く。


 その数十分前。

 天也と甘音は、神庭の最奥へとやって来ていた。甘音は勿論のこと、天也もここまで来たことはないらしく、不安げに視線を彷徨わせる。

 日の光が届きにくい暗がりの森の中で、天也はふと後ろを振り返った。道は続いており、反対を向いて歩けば知っている場所に戻ることが出来る。

「甘音、戻るか?」

「……ううん。行きます」

 天也の予想を裏切る返答をした甘音は、すっと更に先を指差す。

「この先に、いかなきゃいけない気がします。呼ばれてるみたいな」

「呼ばれてる……?」

 まさか怪談関係の話か、と天也は内心びくついた。しかし甘音は彼の表情からそれを読んだのか、フルフルと頭を振った。

「勿論、怖いものじゃないです。怖いものなら、わたしも行きたくないですもん」

「だよな。でも、じゃあ何?」

「わかりません。わかりませんけど、きっと怖いものじゃないです。その対極のものかと」

「どうしてそう思う?」

 首を傾げた天也に、甘音はクスッと小さく微笑んだ。

「勘です。姫神としての、勘」

 だからわたしを信じてください、と甘音は言う。しばし考えた後、天也は決断した。

「よし、行こう」

 自由になる時間も場所も少ない。ならば、思いっきり使い切るしかないではないか。

 二人はより奥へと進み、やがて開けた場所に出た。

「うっわ……」

「すごい……」

 あんぐりと口を開けた間抜けな顔で、天也も甘音もを見上げた。

 それとは、いつも見られる巨木の五倍の太さと高さはありそうな、化け物じみた大きさの樹木であった。

 その木のために作られた空間とさえ思われる日当たりは、温かな光で満ちている。寝転がれば柔らかそうな背の低い草原の中、何物にも負けない存在感だ。

 日に照らされた木の葉は虹色に輝き、まるで木全体が光っているようだ。更に幹は透明感があり、茶色ではなく無色である。その中を通る道管や師管が見えてしまうほどだ。

 あまりの現実離れした美しさに、天也と甘音は言葉もない。

「……」

「……」

 しばらく呆然と見上げていたが、甘音は自分の耳に何か聞こえたように感じてキョロキョロと周りを見渡した。

「どうした?」

「あ、いえ。……何か、聞こえた気がして」

「何か?」

 天也も耳を澄ませるが、風と葉が擦れる音くらいしか聞こえない。しかし甘音は目を閉じて集し、更に虹色の木に近付いていく。

「あ……。あなたですか? わたしに話しかけたのは」

 甘音は立ち止まり、何かに声をかけた。天也も駆けて近付き、甘音が見ているものを見てハッとする。

「人……?」

『いえ、わたしはもう、人とは言えません』

「頭に直接!?」

「……」

 驚き慌てる天也に対し、甘音は冷静にその人を見詰めている。

 その人は、半透明だった。辛うじて人の形を残して祈るように座っているが、下半身はほとんどクリスタルの結晶のようになっている。まるで、木と同化しているかのように。

 甘音は今一歩進んで膝をつき、その人の膝に触れた。ひんやりと、体温の感じられない固い感触だ。

「……あなたが、現在の姫神?」

『ええ。あなたを待つ、最期を向かえつつある者です。まさか、会うことが出来ようとは思いもしませんでしたわ』

 儚く微笑み、姫神は半透明な手で甘音の頬に触れた。低めの温度だが体温を感じ、甘音はほっとする。

『わたしは、まだ現世にいます。期間は短いですけどね』

「どうして、そんなことを言うのです?」

 現世から消えるなんて言わないで、と甘音が言うが姫神は頭を振る。

『わたしが姫神となって、何百年経ったでしょうか。そろそろ、肉体が限界なのです』

 でも、と姫神は甘音に微笑む。

『あなたには、まだたくさんの心残りがある様子。それらを優先し、終えてから姫神となりなさい。少しでも、うれいをなくしておくべきです』

 それまでは待っているから、と姫神は後輩に笑って言った。

 甘音は素直に頷き、天也の袖を引いた。天也は信じがたい出来事の連続にぼうっとしていたが、目を瞬かせた。

「どうした?」

「帰りましょう、天也さん。まだ、わたしにはやすべきことが残っています」

「……俺もだ」

 二人は姫神に頭を下げ、もと来た道を戻り始めた。するとそれを追いかけるように、姫神の声が頭に響く。

『未来の姫神、わたしの消え方を参考にしてはいけません。わたしは、この姫神の木と同化する道を選んだ、それだけなのですから。……時間は長くありましょう。たくさん考え、たくさん行動することです』

「……はい」

 確かに頷き、甘音はもう振り返らなかった。

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