第405話 未踏の地へ

 晶穂はしばし、悶えていた。

 体にはリンに触れられていた熱が残り、心臓が耳元にあるのではないかと錯覚するほど高鳴っている。きっと顔も真っ赤なのだろうなと思いつつ、頬を両手で挟むようにしてうつむいていた。

「……か、顔洗ったら熱が下がるかな」

 昨日、ユキたちに近場の水辺を教えてもらったばかりだ。みんなのところへ行く前に少し落ち着こう、と晶穂は密かにテントを出た。

 他のテントは全て片付けられ、少し離れた場所に仲間たちが集まっているのが見える。その中にはリーダーであるリンの姿もあり、晶穂は見惚れそうになって慌てて顔をそむけた。

「は、早く行こうっ」

 足音をさせないよう、でも急いで泉へと向かう。そこは風の音くらいしか聞こえない静かな場所で、晶穂は冷たい水に指をつけた。

 両手のひらを器にして、洗顔する。温かいお湯で顔を洗う方がダメージが少ないことは百も承知だが、今は顔の温度を下げることが最優先だ。

 パシャパシャと何度かして、晶穂はようやく持って来ていたタオルで顔を拭いた。そしてほっと息をつくと、片手を自分の頬にあてて熱を確かめる。

「……よし。普通に戻ったかな」

「晶穂さん?」

「きゃっ」

 髪についた水滴をタオルで拭っていた晶穂は、背後から名前を呼ばれて内心跳び上がった。振り返ると、少し申し訳なさそうな顔をした春直が数本の水筒を持って立っていた。

「ごめんなさい。そんなに驚くなんて……」

「あ、ううん。大丈夫。……だけど」

「?」

 首を傾げた春直の頬に手を添え、晶穂はほっと息をついた。

「おかえり、春直。戻ってたんだね」

「あっ……」

 心からの安堵を見せる晶穂の様子に、春直は彼女にはまだ帰って来たことを伝えていなかったことに気付く。わずかに視線を彷徨わせ、それから春直は「はい」とはにかんだ。

「ただいまです、晶穂さん。心配かけて、ごめんなさい」

「あなたが無事なら、それでいいよ。帰って来てくれてありがとう」

 春直の柔らかな耳ごと頭を撫で、晶穂は微笑んだ。右目の色が異なっているのは、きっと封血の影響だろう。そんな予想をつけ、後で話を聞こうと思う。

「……っあ、そうだった」

「どうしたの?」

 春直は手にしていた水筒の口を開け、泉につけた。

「晶穂さんが落ち着いたらすぐに出発しようって話をしてたんです。だから、水筒に水を」

「ここの水、そんなに綺麗なんだね」

 感心する晶穂が泉の周りを見渡すと、奥の方に湧水を確認出来た。そこから新たな水が泉に湧き出しているのだろう。そして、山に住んでいるらしい鹿や熊の親子が水を飲む様子が見えた。彼らは普段空食う食われるの関係だが、この場では我関せずと水を飲んでいる。

 キュッと水筒のふたを閉め、春直は立ち上がって頷いた。持って来たもの全てに水を入れ終えたらしい。

「はい。清水が湧いているのもあってか、昨日も火にかけずに飲みましたけど腹痛を訴える人は誰もいませんでした。奇跡的だねって話してたんです」

「本当に……。あ、春直。わたしも行くよ」

「はい。みんな、待ってますよ」

 オッドアイの目をしばたかせ、春直は微笑んだ。晶穂は彼の隣を歩き、仲間たちのもとへと戻っていった。


 全てを片付け、わずかな焚火の後を地面に残すのみとなった場所で、一行は春直を待っていた。そこへ、晶穂のテントを見に行っていたジェイスが骨組みと布を畳んで現れる。

「ジェイスさん、晶穂は……」

「何処かに出たのか、テントにはいなかったよ」

「っ……。もしかして、敵しゅ」

「それはない。争った跡なんてなかったからね」

 焦燥感に駆られたリンが顔を青くするのを笑って制し、ジェイスはリュックの中に折り畳んだテントを仕舞った。残ったのは晶穂の小さなリュックだが、それは軽いために腕にかけた。

 余談だが、リンたちが使うテントは折り畳むことが出来、骨組みもカーボンのような軽量素材のためにかさばらない。誰かが文庫本と同じくらいの重さだと言ったというが、真偽は不明だ。

「じゃあ何処に……」

「あ、あれじゃないかな?」

 ユーギが指差した先には、仲良さそうに談笑しつつこちらへ向かって来る二人の姿があった。ユーギが「おーい」と手を振ると、春直が気付いて大きく手を振る。その隣にいた晶穂も、笑みを浮かべた。

「よかった。晶穂、元気そうだな」

「ああ。ただ、まだ魔力は不完全みたいだ。でも笑顔を見せられるなら、ある程度回復したんだろうね」

 分析するように感想を述べるジェイスに、克臣は肩を大袈裟にすくめてみせた。

「素直に喜べよ。心配してただろ、ジェイスも」

「ああ。でも、大丈夫だって信じてるからね」

「それは当然だけどな」

 少し素直ではないジェイスに呆れつつ、克臣は晶穂に向かって手を挙げた。それに気付き、晶穂がこちらへ駆けて来る。

「ジェイスさん、克臣さん、唯文、ユキ、ユーギ、甘音! みんな、ご心配おかけしました」

 深々と頭を下げる晶穂に、克臣が軽い調子で言う。

「おはよう、晶穂。心配はしたが、顔を見られて安心したぞ」

「ああ。体の調子はどうだい?」

「はい。本調子、とはいきませんが動くのに問題はありません」

 顔を上げ、晶穂は微笑んだ。ジェイスと克臣は彼女の回答に満足し、首を縦に振る。

 そこへ、春直から水筒を受け取った唯文がやって来る。

「本当に、元気なんですか?」

「無理しちゃダメだよ、晶穂さん」

「でも、起きてくれてよかったよ」

「みんな、心配させてごめんね。ありがとう」

 ユキとユーギにも詰め寄られ、晶穂はたじたじとなりながらも笑みを見せる。そこへ甘音も駆けて来て、晶穂に抱きついた。

「甘音……?」

「晶穂さん、たくさん守ってくれてありがとう。あと……勝手に出て行ってごめんなさい。晶穂さんがあんなふうになっちゃうなんて、思いもしなかったの」

 晶穂の服に顔を埋め、甘音が後悔で彩られた声を出す。その声はわずかに震えていた。

「わたしがあんなふうに倒れたのは、自己管理がなってなかっただけだから、甘音は責任を感じなくていいんだよ?」

 甘音の肩に手を置いて、晶穂は微笑む。赤くなった少女の目元を拭い、紺色の髪を撫でた。

「それに、あなたも無事でよかった。……もう、無鉄砲に飛び出したら駄目だからね?」

「うん、ありがとう」

 ようやく笑みを浮かべた甘音を離し、晶穂は少し離れたところからこちらを見守っていたリンと目を合わせてしまった。

「……」

「……」

 お互いに顔を赤らめて小さく頷き、晶穂は微笑んだ。そんな彼女を見て、リンは照れて目を逸らす。

「さあ、晶穂も春直も戻って来たことだし、そろそろ行こうか」

 ジェイスの号令で、それぞれの荷物を背負う。彼らの前に広がるのは、誰も分け入ったことのないという未踏の山脈の姿だ。

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