第374話 嘘だ
―――ドクン
白銀の狼がリンと晶穂に襲い掛かった刹那、春直の中に二つの感情が重なった。
一つは怖い、という感情。得体も知れない強力な敵を前に、体がすくみ上がるような恐怖と助けを求めたい生存報告がこだまする。
もう一つは、二人を助けなければという思い。古来種への恐怖と怒りから救い出してくれた恩人であり、大切な仲間である二人を助けたいという純粋な気持ちが膨れ上がった。
怖い。助けて。でも――走らなきゃ。
弾かれるように飛び出した自分のスピードが、自分のものではないようにすら感じる。こんなに速く動けただろうか、と不思議に思う程に。
目の前には、巨大な狼の姿がある。妙にスローで飛び掛かってるその全体像を目に焼き付け、春直は爪で攻撃しようと構えた。
その時だった。
―――ドクン
抑え付けていた何かが溢れようとする前触れのように、心臓が痛む。不自然な拍動を知りつつ、春直は視線を間近に迫る狼へと向けた。
(守るんだ。ぼくが、これまで守ってもらった分も。守って見せる!)
―――ドクンッ
春直の視界が、赤く染まった。
リンの左腕の血は、ようやく止まった。彼自身の治癒力に加え、それを手助けする晶穂の力あっての結果だ。
しかし今、二人にはそれを喜び安堵する余裕はない。何故ならよく知る少年が、彼らしくもない方法で敵を打ち破ったのだから。
首領たる白銀の狼が倒されたことにより、狼たちはバラバラと姿を消していく。残っていた気絶済みの狼も、のちほど仲間たちの元へと戻るだろう。
狼たちの解散も、リンたちの考えの外の出来事だ。
「春、なお……?」
目の前で立ち竦む少年は、長く伸びた爪をそのままにこちらを振り返った。リンの言葉に反応したらしい。
「―――っ」
春直の容貌に、リンと晶穂は声も出ない。
アメジストのような紫色であったはずの瞳の色は赤に変色し、人懐っこくも臆病な表情が無に帰している。引き結ばれた唇に、感情の色は失われた。
そこにいるのは、春直であって彼ではない。そう思わせるだけの何かがあった。
「……」
春直は無表情のまま、リンたちに向けて一歩踏み出した。両手の爪から滴る血は、あの狼のものだろう。
リンは晶穂をかばいながら、一歩後退する。何故か、今春直に直接触れてはいけない気がした。
二人が下がると、ユキたちが駆け寄って来た。三人はそれぞれに不安げな顔をしている。ユキはリンの袖を引き、戸惑いを口にした。
「兄さん、春直に何が……」
「わからない。だけど、このままにすることも出来ない……くそっ」
どうしたらいいのかわからず、リンは未だに痛む手を握り締める。晶穂も彼に声をかけたいが、何と言えば良いのかわからなかった。
しかし混乱するリンの横で、行動を起こす者たちもいる。
「あのままじゃ、春直が春直じゃなくなるかもしれません。どうにか、目を覚まさせたいです」
「だね。もしかしたら、刺激すればそのダメージで正気に戻るかも」
「唯文、ユーギ。ま……」
リンの制止も聞かず、二人は飛び出した。その動きから、彼らが本気でかかろうとしているのだと察しが付く。
唯文は跳び上がって魔刀を振り上げ、春直の頭を狙う。刀を振り下ろす直前、春直の赤い瞳と目が合った。
「うわっ!」
春直の長く伸びた爪が刀身のように振るわれ、唯文を弾き飛ばす。その乱暴な力の反発で、唯文の腕には何本もの傷が刻まれた。
「大丈夫か、唯文」
飛ばされた唯文を受け止めたジェイスは、彼の「はい」という返事を聞いて安堵した。しかしまだ、ユーギが春直と向き合ったままだ。
「ユーギ、油断すんなよ!」
克臣の鼓舞に頷いて応じたユーギは、じりじりと春直との距離を推し量る。それは向こうも同じらしく、距離は全く詰まらない。
無常に時間は過ぎていく。それに苛立ったユーギは、自ら前に一歩を踏み出した。
「―――こんなことにかけてる時間なんて、ないんだからな!」
「駄目だ、ユーギ!」
「春直を返せ!」
リンの制止も間に合わず、ユーギは助走をせずに地を蹴って跳び蹴りを放った。その足が春直に届く、その間際。
――ザシュッ
「……くっ、ぁ」
春直はユーギの跳び蹴りをわずかに体を傾けることで躱し、ユーギが通り過ぎる直前に思いきり引っ掻いた。しかもそれは普通の爪ではなく、鋼鉄のように強化された爪という武器で。
合計五本の血の帯がユーギの足を襲い、痛みで着地することもままならずに転げるように落ちる。その衝撃は傷に響き、ユーギは悶絶した。
「あっ、あぁぁっ」
「ユーギ、ユーギ!」
「しっかりしろ、ユーギ!」
ユキと唯文が駆け寄り、その傷口から溢れる血を止めようと躍起になる。肌が裂け、中まで見えそうな赤い傷は、二人に「もしかしたら」を想像させた。
「ユーギくん……」
甘音は、ユーギの状態に青ざめた。そして、ユキと唯文の傍に駆け寄って両手を胸の前で祈るように握り締める。
青い顔で暴れるユーギを抑え付けるユキと唯文のもとに、晶穂が駆け寄る。傍に膝をつき、大丈夫だよと何とか笑みを浮かべた。
「死んだりなんてさせない。だから、二人ともそんな顔しないで」
「晶穂さん……」
「ユーギ、頑張って」
涙目のユキの頭を撫で、晶穂はユーギの傷に向き合う。リン同様に、溢れる血は痛々しい。しかし傷は広範囲に渡るため、早急な手当てがより必要だ。
痛みに悶えるユーギの腕を取り、晶穂は自分の手のひらをかざした。温かなオレンジ色の光が満ち、傷を覆っていく。
「あっ……」
痛みが落ち着き、ユーギの表情が穏やかになってきた。せめて血を止めなければ、と晶穂は懸命に向き合う。冷汗が噴き出し、自分の限界も近付いていた。
「春直、お前どうしたんだよ!」
四人がユーギにかかり切りになっている間に、リンとジェイス、克臣は春直と対峙していた。変わらず無表情にこちらを見つめ、春直は再び臨戦態勢を取ろうとする。
「……どうする?」
「んなもん、最後は一つしかないだろ」
ジェイスと克臣の会話は、最悪の事態を想定していた。二人とて、同士討ちのような真似はしたくない。しかし原因さえもわからない以上、考えておくべきだろう。
「くそっ」
リンは二人の短い会話の中にある意味に気付き、奥歯を噛み締めた。そんな結末は、誰も望んでいない。
「―――目を覚ませよ、春直」
「……」
一歩、春直が足を進める。それが、破滅へと向かうことも知らずに。
幾らリンが呼びかけようと、戻らないのではないかという絶望が見え隠れする。
それでも、リンは諦めたくない。ジェイスも克臣も、春直を取り戻したい一心なのだ。
「―――っ」
リンは腕の痛みを堪え、息を吸い込む。そして、吐き出すと同時に叫んだ。
「戻って来い、春直!!!」
「―――ッ!? ……リン、だんちょう?」
ビクッと体を震わせた後、春直の目がゆっくりと紫色に戻って行く。同時進行で、春直の自我が戻って来たらしい。
きょとんと目を瞬かせ、周囲を見回す。そしてユーギが傷を負って倒れ、傍にいる唯文の腕にも傷が幾つもあることに気付く。
「どうして……。あれ?」
自分の足元には、あの銀色の狼の死体がある。その首は両断され、ぴくりとも動かない。見つめていると、徐々にその姿は透明になり、ポンッと消えてしまった。
足下に目を移したのと同時に、春直は自分の爪が赤く汚れていることに気付く。両手を掲げ、首を傾げた。
「え? ……嘘、だよね」
徐々に気付く。自分が先程まで何をしていたのかは覚えていないが、確かに仲間を傷付けたのは自分なのだと。その証拠は、何も言わない仲間たちだろう。
「嘘。嘘だ。こんなの―――ッ」
「待ってくれ、春直!」
現実に耐え切れず、春直は駆け出す。リンの声も振り切り、夜明け前の闇の中に姿を消した。
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