第373話 赤い雫
一頭の狼が後ろ足で地を蹴った。跳び上がった大きくしなやかな体が、春直に襲い掛かる。
「うわっ」
春直もまた地面を蹴って横っ飛びでそれを躱す。しかし逃げる暇は与えられず、すぐ傍にはもう一頭が控えていた。
もう一頭が牙をむき、春直に向かって走って来る。春直は爪を伸ばして応戦した。
牙と爪が交差し、金属音に似た音を響かせた。
「春直、平気!?」
「大丈夫……っ。ユキ、よそ見しないで!」
どうにか牙を押し返し、春直は傍に跳び下りてきたユキに警告を発する。それに笑顔で応じ、ユキは氷柱を狼の脳天に落としてみせた。
「任せてよ」
ギャウッと狼が悲鳴を上げて動かなくなった。ピクピクと痙攣していることから、生きてはいるらしい。
「あの銀のやつ以外は、あれに呼ばれて協力してるみたいだな」
「だからって、逃げるつもりもないみたいだけどね」
飛びかかってきた一頭の腹を蹴り飛ばした唯文と、同じく狼の横腹に回し蹴りを食らわせたユーギが言い合う。彼らの言う通り、幾ら仲間が倒されようとも、一頭も逃げ去るものがいない。
「おい、そっち行ったぞ」
「克臣、わたしに押し付けないでくれないか?」
「俺のせいじゃねぇ!」
真夜中にもかかわらず吠えた克臣に、やれやれと肩をすくめたのはジェイスだ。二人の前には三頭がいて、内一頭は柔軟に相手を変えていた。
二人の前に陣取るのは、春直たちと交戦中の狼より一回りほど大きな個体だ。そのくせ
「晶穂、甘音を頼む」
「わかった!」
一人で三頭を引き付けたリンが、背後にいる晶穂たちに向かって言う。晶穂の前にも一頭が近付いていたが、彼女は気丈に微笑んで見せた。
「晶穂、さん……」
「大丈夫だよ、甘音。あなたのことは、わたしが絶対傷付けさせないから」
不安に彩られた顔で晶穂の服の裾を握り締める甘音に、晶穂は言った。自信による言葉ではなかったが、甘音との約束として。
晶穂の手には、氷華と名付けた矛がある。その切っ先を狼へと向けた。甘音を引き寄せ、灰色の狼と目を合わせる。
「絶対、守るから」
「ウォウッ」
唸り声を上げた狼が、土埃を巻き上げながら向かってくる。大きな牙を剥き、晶穂に噛みつこうとした。
しかし、キンッという音と共に弾き飛ばされる。地面に 叩きつけられた狼は、何が起こったのかわからないのかキョロキョロと目を彷徨わせた。
「間にあった」
晶穂はほっと胸を撫で下ろす。神子の力で障壁を築き、狼の突進を防いだのだ。
晶穂の防戦がうまくいっていることを知って安堵を覚えたリンは、向かってきた狼を躱した。
「関係ないやつを傷付けるのは気が引けるけど……悪いな!」
ドッ、と剣の底で眉間を突かれ、狼は脱力して地に伏した。それを見たためか、もう一頭はリンと距離を取る。少し慎重な性格のようだ。
黒っぽい色の狼は、一定の距離を空けて詰めることはせず、こちらの出方を窺っている。
リンは剣を油断なく構えたまま、目の前の狼に集中した。
「……何処で来る?」
「ウウゥッ」
リンに挑発されたと取ったのか、狼は唸り声を上げると同時に飛び出した。宙を舞った巨体の牙が閃く。
「───ちぃっ」
リンは躱す隙はないと判断し、正面から剣で牙を受け止めた。刃のような歯で剣を噛み砕こうとする狼と、耐え抜く構えのリンの目がかち合う。
その瞬間、狼の目がわずかに細くなった。
「? ……いっ」
「リンッ!」
晶穂の悲鳴が耳を突く。
リンは正面の狼ではなく、左側から突進してきた灰白の狼に腕を噛み付かれたのだ。未だ甘噛み程度だが、少しずつ牙が肌に食い込んでいるのがわかる。あの狼の目の意味はこれか、とリンは内心舌打ちしたくなった。
「……っ……!」
リンは悲鳴を上げたいのを意地で堪え、右手の剣で剣撃を放った。それは正面の黒っぽい狼を吹き飛ばすことにつながった。
剣が自由になった瞬間、左腕を拘束する狼の腹へ向かって気力で剣を振るった。
「ガハッ」
まさか一撃を投じて来るとは思っていなかったのか、狼は思わず口を開いた。その隙に腕を引き、血まみれのまま両手で剣を握る。
「ああああぁぁぁっ!」
フルスイングの要領で放った剣撃は、見事に口から血を垂らす狼の顔面を直撃した。
「……ギャウン!」
二度の攻撃に耐えかね、狼は地面に叩きつけられ気を失った。リンは肩で息をしながら、思わずその場に座り込む。左腕からはドクドクと血が流れ、顔色が悪くなる。
「はぁ、はぁ……。痛っ」
「リン、見せて!」
晶穂は甘音をユーギとジェイスに任せ、リンに駆け寄った。そして自分が血で汚れることも厭わず、リンの腕に触れる。
狼の牙が食い込んだ個所が最も酷い傷口をさらし、赤い血が溢れ出る。震える手で傷口を覆うように手を添える晶穂に、リンは痛みを堪える顔で苦笑した。
「あき、ほ。無理するなよ……?」
「それは、わたしの台詞だよ」
晶穂は指の間を流れる血を止めようと、目を閉じて神子の力を集中させる。リンも大人しく、されるがままとなっていた。
リンが重傷を負ったことで、狼側に勢いがついた。白銀の狼以外の狼たちが、順番に遠吠えをし始めたのだ。輪唱のように重なる音は徐々に広がり、更なる援軍を呼び寄せる。
三頭を倒した克臣だったが、敵の数が増えていることに思わず舌打ちをする。
「ちっ、キリがねぇ。ジェイスとユキ、リンたちを頼むぞ!」
「任せて」
「わかった!」
ジェイスとユキがリンと晶穂をかばうように立ち、狼たちの攻撃を弾き飛ばしていく。時折狼の牙や爪で傷つくが、痛みをおくびにも出さない。
克臣と唯文、春直は前線に出て、突撃してくる狼たちを片っ端から相手取る。
「くたばれ。――竜閃!」
放たれた光の竜は狼たちを圧倒し、倒れた狼の山を作り出した。更に唯文の魔刀の力が炸裂し、急所を襲われた狼が悲鳴を上げることなく倒れ伏す。
ユーギは甘音の傍にいて、晶穂が置いて行った結界の保持を担う。そして隙を見て、克臣たちが取りこぼし反撃しそうな狼に回し蹴りを食らわせた。擦り傷や切り傷は増え続けるが、構いはしなかった。
懸命に体の震えを隠そうとする甘音を守る、それが自分の役割だから。
「うっ……。ま、負けない!」
春直もまた、爪で狼と渡り合っていた。どうしても接近戦を余儀なくされる春直は、狼の爪で上腕を傷付けられ、呻いた。
思わず身を引いた春直を深追いした狼は、唯文が斬り捨てる。
「無事か、春直」
「ありがとう、唯文に……!」
今まで何処にいたのか、少し離れた高台にあの白銀の狼が立っている。毛並みは月光に照らされて輝く。
その狼が、とんっと地を蹴った。
急速にスピードを上げ、こちらへと駆けて来る。その大きな口と中に生える牙が狙うものを知って、春直は咄嗟に動いていた。
白銀の狼が突進したのは、最も傷が重いリンのもとだ。流石に瞬時に反応出来なかったリンと晶穂が、身をすくませる。
―――グワゥッ
牙をむき出しにし、飛び掛かる。その瞬間だった。
「春、なお……?」
「どうしたの、春直!?」
白銀の狼が、ずしんと音をたてて倒れる。その首には、真っ赤な太い線が引かれている。ぐらりとバランスを崩し、首が落ちた。
その巨体の向こう側に、小柄な少年の姿があった。激しい呼吸を収めることなく、地が滴る長く伸びた爪を掲げる。頬に、赤い水滴が落ちた。
―――ドクン
リンと晶穂の声に応えることなく、春直が
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