第349話 ただ素直に

 ユーギは息を切らせながらリドアスまで走って来ると、一度立ち止まって深呼吸をした。それから戸に手をかけ、大声を上げる。

「ただいま!」

「お帰り、ユーギ」

「相変わらずでっけぇ声だな」

 最初にユーギを迎えたのは、数分前に巡回から戻ったジェイスと克臣だった。ジェイスの腕には紙袋が抱えられている。

「ジェイスさん、それは?」

「これかい? 市場に寄ったら美味しそうだったから、おやつにどうかと思って買って来たんだ」

 ジェイスが身を屈めて見せてくれたのは、幾つものミニサイズのドーナツだ。チョコにナッツ、サロにプレーンと様々な味の物が揃っている。ユーギは目を輝かせ、しっぽを振った。

「ジェイスさん、それ後で食べるよ!」

「おや、今じゃなくて良いのか?」

 食いしん坊のユーギには珍しい。そう言いたげなジェイスに、ユーギは笑みを返す。

「団長からメッセージ貰ったから、それを聞いてからにするよ」

「なら、なおのことじゃないか? 他のやつらが帰って来たら、それ食いながら聞いたらいいだろ?」

「あ、そうか」

 克臣の提案に、ユーギは素直に頷く。二人のやり取りを楽しげに見守っていたジェイスは、ふと時計を見て苦笑した。

「それに、帰るの待ってたら夕食の時間になりそうだ。これはデザートってことにしておこう」

「わかった。じゃあ部屋で宿題してくる」

 リュックを揺らし、ユーギは自室へと走って行った。彼が帰って来たということは、他の年少組も順次戻ってくることだろう。

「克臣。わたしは一度、食堂にこれを置いて来るけど」

「ああ。俺は真希のとこに行ってくる」

「ここ最近、ちゃんと父親してくれるって真希ちゃん喜んでたよ」

「それ、絶対俺には言わないんだぜ?」

「仕方ないだろう? 彼女の気持ちもわかってあげてくれ」

「わーたよ」

 くすくすと笑うジェイスの額にチョップをかまし、克臣は片手を挙げて自室へと向かった。


 自室の戸を叩き、中からの返答を待つ。パタパタと足音がして、克臣の前にエプロン姿の真希が顔を覗かせた。

「お帰りなさい」

「ただいま、真希」

 特に渡す荷物もないため、克臣は真希と並んで歩く。すると奥から、明人あきとの声が聞こえてきた。

「まま~?」

「明人、ぱぱが帰ってきたよ」

「おかーり、ぱぱ」

「ただいま、明人」

 克臣が明人を抱き上げると、彼は嬉しそうににへらっと笑った。その笑みを見て相好を崩し、明人をカーペットの上に下ろす。

 明人は丁度汽車のおもちゃで遊んでいたらしく、再び新たな線路を開拓すべくパーツを握った。

 このおもちゃは実は日本のものではなく、ソディールに来てから手に入れたものだ。唯文の父文里ふみさとが、息子の幼い頃のものだと譲ってくれたのである。

 明人が楽しそうに遊んでいるのに安堵し、克臣はキッチンに立つ真希を見やった。

 桃色の花と黄緑の葉がプリントされたエプロンを身に付け、何かを作っている。おいしそうな匂いが鼻をくすぐった。

「真希」

「ん? どうかした?」

「いや……」

 口ごもる克臣を変だと思い、真希はコンロの火を消してから首を傾げて近付いた。そっと夫の頬に振れ、彷徨う瞳と自分の物とを合わせる。

「何か、心配事?」

「え? いや」

「違う? じゃあ……何か悪いことでもしたの?」

「そんなわけあるか。俺は犯罪なんて」

「わかってる。ふふっ」

 本当に可笑しいと言いたげに、真希は目を細める。何も言わない夫に呆れたわけでもないのだが、真希は手を克臣から離した。

「変なの。……それとも、少しはわたしが何で不機嫌だったのかわかってくれたの?」

「……」

「ま。いいわ。座って、もう出来るから」

 キッチンへ戻るために克臣に背を向けた真希は、一歩踏み出した。後は何をすべきか考えながら歩を進め、右手首を掴まれた。

「えっ───」

「ごめんな、真希。おまえの気持ち、全然考えてなかった」

「かつ、おみくん……」

 背後から抱きすくめられ、真希の体がぶわっと熱を発する。硬直した真希の心臓が、どくんどくんと五月蝿いほどの音をたてる。

 耳元で克臣の吐息が漏れ、耳たぶをくすぐる。

「ちょっ」

 離して欲しいと手で克臣の腕を押すが、微動だにしない。もともとの力の強さが違う。

 余計に抱き締められて、真希の心臓は爆発しそうになった。

「わかった! わかったから離してっ」

「うおっ」

 振り向き様に克臣の胸を押し、真希はようやく自由の身となる。相変わらずドクドクと五月蝿い胸を手で押さえ、真希は真っ赤な顔で克臣を睨んだ。

「待ってよ、克臣くん。このままじゃ流れでほだされちゃうでしょ? 克臣くんが謝りたいこと、今ここで言って!」

「あ、ああ」

 真希が何故怒っているのかわからなかったが、克臣はとりあえず.謝ることを優先させた。

「……真希」

「はい」

「晶穂に言われたよ。『好きな人に誕生日を覚えていてもらえた、それだけで嬉しいものですから』ってな。……ただ、お前に素直に言えば泣かせなかったんだよな。誕生日おめでとうって。ごめんな」

 後頭部をガシガシとかきながら、克臣は言う。少し顔が赤いのは、照れている証拠だ。

 真希が黙っていると、克臣は何を思ったか真っ直ぐな目をして真希を見詰めた。

「だから、もう一度言わせてくれ。──誕生日おめでとう、真希。これからも俺のそばにいて欲しい。……愛してる」

「──……っ。克臣くんの、ばかっ」

「うわっ、何でだよ?!」

 ポカポカと真希に胸をグーで叩かれ、克臣は困惑する。真希はそれに構わず、きゅっと克臣に抱きついた。

 くっつくと、安心する。体と心に力が湧いてくる。真希は何故かぼやけた視界の中に愛する人を見詰めながら、微笑んだ。

「ありがとう、克臣くん。わたしも、愛してる」

「あ、ああ」

 少女のように無邪気な微笑みを浮かべる真希を見て、克臣はわずかに視線をそらした。直視出来ないのだ。

 その代わり、克臣は真希をもう一度抱き締めた。ごめんとありがとうと愛してる、その全てを心から込めて。

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