第342話 忘れられた里
カッカッカッ。男が杖を突きながら歩いている。
「全く。これほど遠いと、杖なしでは難しいな」
男は苦笑しながら、一歩一歩と森の中を歩いている。その頭髪は白勝ちで、顔には何本ものしわが走る。年を重ねた体に、険しい森の道は辛い。
「……久しいな、この里も」
男が何時間もかけて一人やって来たのは、かつて竜人の里と呼ばれていた場所。今はまだ住民は帰って来ていないが、徐々に復興が進めば再び賑やかな里となるだろう。
まだ、戦闘の後が生々しい。
里のあちこちに気を失った男女が倒れている。彼らは全て、男が長を務める国の軍人である。
男はその里の、最も激しい損傷が見られる場所へと向かう。大きな木の下に、見知った男が伸びていた。
「カリス」
「……」
呼び掛けても応じる気配はない。男は彼の肩を揺すりつつ、もう一度名を呼んだ。
「カリス官房長官?」
「う……タオジ、首相? どうしてこんなところに……?」
「それはわしが聞きたい。お前が官邸からいなくなったと騒ぎになっているぞ。早く戻り、安心させてやってくれ」
ぼーっとして焦点の定まらないカリスに、タオジは呆れ顔で払うように手を振った。そしてようやく頭が冴えてきたのか、カリスは目を見開く。
「そうだ、私は! ……あれ?」
「どうした」
「……何故ここにいるのか、わからない、です」
自らを見下ろせば、土や泥で汚れて目も当てられない有り様だ。服も所々擦り切れ、人前に出ることなど出来ない。
カリスが呆然とする中、タオジはゴホンと咳払いをした。
「……ど忘れしておったが、お前にはわしがこの辺りの環境調査を頼んだのだ。この人数がいれば一日かからんだろうと思っていたが、思いの外かかったようだな。助かった、ありがとう」
「そ、そうでしたか」
カリスは疑うことなくタオジの言葉を信じたらしく、立ち上がると体の土ぼこりを手で払った。そして、タオジに頭を下げる。
「こんな森の中までご足労頂きまして、こちらこそ礼を申します。首相、共に参りますか?」
「……いや、先に帰りなさい。わしは自分の仕事を終えてきたのでな、ゆっくりと戻らせてもらおう」
「では、部下を数人置いていきましょう。──おい」
ようやく各々目を覚まし出した軍人たちの中から、幾つか応じる声が返ってくる。それらに向けて、カリスは首相の護衛を命じた。
全ての采配を終え、カリスはタオジに頭を下げた。
「では首相、お先に失礼致します」
「ああ。……今後も宜しく頼むよ」
「はっ」
目覚めた軍人たちまだ眠っている者たちの運搬を命じ、カリスは牙城の官邸へと歩み去った。
「……記憶操作の力。まだ、竜人の中に残っておったか」
竜人に関すること全てを覚えていないかのような、それどころか竜人自体を知らないようなカリスの態度。また、部下たる軍人たちも同じだろう。
この世界から、竜人に関する記憶全てが忘れ去られた。おそらく覚えているのは自分と、今回カリスの邪魔をしていた青年たちくらいのものかもしれない。
「まあこれで、先々まで安心か」
カリスは元々、至極真面目な男だ。こちらを操っていると錯覚しているようだか、その実、彼が思うよりも複雑なのだ。
タオジは息をつくと、踵を返した。そろそろ出発しなければ、今度は自分がカリスたちに心配されてしまう。
それに、残ってくれた護衛たちを暇そうにするのもかわいそうだ。
「行こうか」
「──はっ」
数人の若者たちが、タオジの前後を固める。彼らの懸命さに目を細めながら、タオジはその場を離れた。
タオジは一度だけ、里を振り返った。その瞳が翡翠色に輝いていたことに気付く者は、誰一人としていない。
「おい、そろそろ帰るぞ」
荷をまとめ、克臣が声をかける。その声に、ユーギとユキの不平がぶつけられた。
「えーっ、もう?」
「もう少しいたり……」
「しない」
ばっさりと切り捨てられ、二人は頬を膨らませた。折角里の子どもたちと仲良くなれたのに寂しいではないか。
ブーブー言う弟分たちに、唯文が軽いチョップを頭に見舞う。
「それ以上我が儘を言うな。おれたちは、リドアスに戻ってやらなくちゃいけないことがあるだろうが」
「唯文兄の言う通りだよ。それにいつまでもここにいたら、折角記憶を消したのに変な噂がたっちゃうよ」
「それは……」
「まずいね」
春直の言葉に、ユキとユーギは互いに顔を見合わせた。いそいそと支度を始める。
彼ら年少組とは離れたところで、リンと晶穂、克臣はニーザとジュングの二人と立ち話をしていた。
「もう行ってしまうんだね」
「ええ。本当にお世話になりました」
晶穂が頭を下げると、ニーザは笑みを深めて首を横に振った。
「世話になったのは、わしらの方だ。今後、少しずつ里を復興させていこう。ジュングのお蔭で邪魔も入らないだろうしね」
「里以外のこの国に住む全ての人から、竜人に関する記憶を消したはずだ。僕らは静かに里で暮らしていくよ。……いつか、旅に出るのも良いかもしれないな」
「その時は、俺たちを訪ねると良い。きみなら歓迎するよ、ジュング」
「ふふっ。そうだな、その時はリンに案内をお願いしよう」
再会を約束したところで、克臣がふと周りを見渡す。いつもは傍にいるはずの幼馴染の姿がないのだ。
「リン、ジェイスは何処に行った?」
「それは俺も知らなくて……」
わずかに眉間にしわを寄せたリンは、ジェイスを探して歩き出そうとした。しかし、自分の服の裾が誰かに引っ張られる。
「晶穂?」
「あの、ね。今は探さないで」
「何でだ? 晶穂お前、何か知ってるのか?」
克臣にずいっと詰め寄られ、晶穂は顔をひきつらせる。答えられない彼女に代わり、ジュングがため息をついた。
「ジェイスは、姉さんと一緒ですよ」
「アルシナさんと?」
リンが首を傾げると、苦々しげにジュングは頷いた。
「ああ。……最後だから、伝えたいんだとさ」
「……成る程」
「あ~、なら仕方ないか」
リンと克臣も納得し、晶穂はほっと安堵する。
実は数時間前、晶穂はアルシナに相談されていたのだ。だから晶穂は、きちんと伝えるべきだと答えた。
「じゃあ、もう少しだけ待とうか」
「ですね。船の時間まではまだありますし。少し時間を潰しましょう。───行こう、晶穂」
リンが晶穂の頭を軽くぽんぽんと叩いた。それがくすぐったくて、晶穂は彼の後を追いかけた。
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