里を守り続けるために

第335話 会えないと思ってた

 ───ガッシャン

 机の上に置かれていたグラスが、床に落ちてけたたましい音をたてた。中のワインがこぼれ、しみを広げていく。

 しかし今、男にそれを拭くだけの余裕はない。

 男は電話の役割を果たす端末を耳から離すと、潰しそうなほどに握り締めた。パキパキと端末が悲鳴を上げる。

「クソ野郎が……!」

 男は吐き捨て、端末すらも叩き割ろうとしたが、最後の理性を振り絞って止めた。そっと机の端に端末を置き、乱暴な動作で椅子に腰かける。

「ふざけるな。二十人をたった六人で全て戦闘不能にするだと? 寝言も大概に……」

「カリス官房長官!」

「今度は何だ!」

 名を呼ばれ、カリスは吠え返す。カリスの機嫌が最高潮に悪いことに怯えつつも、連絡役の男は非礼を詫びた。

「それで? 何の報告だ」

「は、はい。実は、地下牢から逃げ出した竜人の行方が知れました」

「本当か? ……いや、おそらくあそこだろうという目星はつけてある。聞こうか」

 床に落ちたグラスはそのままに、カリスは立ったままの男を見上げて言う。

「はっ」

 カリスはこちらの話に聞く耳を持っているらしい。ほっとした男は深々と頭を下げた後、調査報告をなし始めた。

「実は軍のうち一人を、尾行役として別に残しておいたのです。奴らは流石にそれには気付かなかったようで、無事に仕事を果たしました。……まあ、最後には見付かって攻撃されたようですが」

「前振りは要らん。要点だけ言え」

「……申し訳ありません。改めて、奴らは仮の隠れ里へ向かったようです。攻撃されたために最後まで見届けることはできなかったですか」

「……ふむ。やはりか」

 カリスは男を下がらせ、一人で物思いに耽った。

(一度、竜人の捕獲には成功している。数の力とこの国の武力を叩き込めば、制圧も可能か)

 議会に送り込んだ一個隊が全て倒されたとは、未だに信じがたい。しかし、それは真なのだろう。

 ───コンコンコンッ

「誰だ?」

「わたしだよ、カリス官房長官」

「……首相、何の用です?」

 カリスの筋肉質な肉体に比べ、その筋力も体力も劣る首相は、ぶっきらぼうな男の物言いを咎めない。それどころかにこにこと笑みさえ浮かべている。

 昔から、その顔が嫌いだ。

「きみに、そろそろ進言すべきかと思ってね」

「進言? 讒言ざんげんの間違いでしょう。もしくは妄言。……申し訳ありませんが、今私にはあなたに構っている暇はないのです。後にして頂けますか?」

 ガタンと椅子から立ち上がり、カリスは首相の横を通り過ぎようとした。しかし彼の腕が、枝のような首相タオジの手によって掴まれる。

 思いの外強い力に、カリスは内心冷や汗をかいていた。

「離して頂けますか、タオジ首相」

「お前が、竜人の里から手を引くと言うのなら、今すぐ離してやろう。あの者たちに手を出してはならん、とわしは幾度となく言ってきたはずじゃが」

「……ならば、振り払うまで」

 タオジの忠告を無視し、カリスは彼の手を無理矢理払い退けた。そして、執務室のドアを開ける。

 カリスの背に、タオジの寂しげな言葉が投げつけられた。

「人智の及ばぬものに、人がみだりに近付き、ましてや操ろうなどと烏滸おこがましいぞ」

「……」

 バタン。乱暴に閉じられた扉のこちら側で、タオジは嘆息した。




 深夜の森の中、もう追っ手も来ないだろうとジュングの目隠しが取られた。月明かりもない新月の夜、星明かりだけが頼りだ。

 翡翠色の瞳を瞬かせ、ジュングは周りを見渡した。リンが彼の顔を覗き込み、尋ねる。

「どうだ。眩しいとか視界がおかしいとかはあるか?」

「いや、大丈夫だ。特におかしいところもないし……助かった。ありがとう」

 少し照れくさそうに後頭部をかき、ジュングは笑った。その様子に安堵し、リンはアルシナに教えられた目印を頼りに森を進む。時折邪魔をする蔦や草をかき分けながら、目的地を目指す。

「あんた、目印を知っているのか?」

 リンが迷うことなく仮の隠れ里へ向かう道を進むため、ジュングが驚きの声を上げた。すると、何故かユーギが胸を張る。

「アルシナさんが教えてくれたんだ! こういう、木の幹の傷を頼りに歩くんでしょ?」

「それはそうなんだが、何故お前が偉そうなんだ。ユーギ」

「ん? 言ってみたかったから」

「なんだそりゃ」

 呆れ顔の克臣が、ユーギの頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。隠れ里が近く、ユーギの気持ちに余裕が生まれたのだろう。

 余裕が生まれたのは良いことなのだが、油断すべきではない。リンはユーギに釘を刺した。

「ユーギ、まだ戻ったわけじゃない。落ち着いて行けよ?」

「うん。ありがとう、団長」

 素直に頷いたユーギは、ハラハラとしていた春直の隣に戻って歩き出した。

 森は深くなり、人里の気配はない。しかし一歩森に受け入れられると、景色は変わるのだ。

 それに気付いたジュングが、駆け出す。彼が帰りたいと待ち望んだ場所の一つにようやく足を踏み入れることが出来たのだ。

 リンたちはジュングの自由にさせ、彼の後を追ってニーザの自宅へと向かう。そこには、弟の帰りを待ち望んだ女性がいるはずなのだ。

 実は里に入る前、リンは端末を使ってジェイスと連絡を取っていた。ジェイスと唯文、ユキ、そしてアルシナが無事に里へと戻っていることは確認済みである。

「……」

「ジュングさん、入らないの?」

 ニーザの家の前で佇むジュングに、春直が恐る恐る声をかける。するとビクッと反応したジュングが、少し情けない声を出した。

「……僕、ここへ戻って来てよかったんだろうか? 死んだと思われていたらどうしたら……」

「仕方ねぇなぁ」

 懊悩するジュングを押しのけ、克臣が戸を叩く。夜中に訪問を告げることは非常識だが、その戸は中から勢いよく開いた。

「―――お帰りなさい、ジュング」

 そこにいたのは、頬を上気させたアルシナだった。翡翠色の瞳を潤ませ、大切な弟を抱き寄せる。

「ね、姉さん……。本当に、姉さん?」

「何を言っているの? 当たり前じゃない。よく、帰って来てくれたわ」

 姉の腕に応えることが出来ずに硬直するジュングの頬を手で挟み、アルシナは泣きながら微笑んでいた。その顔を見てようやく、ジュングの緊張の糸が切れた。

「……もう、会えないかと思ってたよ。ただいま、姉さん」

 声を殺して姉にすがりつくジュングと、彼を抱き締め泣くアルシナ。リンたちと、家の中にいたジェイスたちは、姉弟の再会を静かに見守っていた。

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