竜化国編
翡翠の女
第309話 たくさんの思いやり
リンたちがアラストの港に到着したのは、ノイリシア王国を出発した当日の夕方だった。町はオレンジと藍色の中間にあり、帰宅を急ぐ影を伸ばしていた。
リンは最初に船を降り、見慣れた景色をぐるりと見回した。
「何か、随分と長い時間離れていた気がします」
「確かに。何かもう、春の風すら感じるもんな」
克臣の言う通り、秋には葉を散らした木に新芽の気配がある。空気の中にも、底冷えするような凍えるものは和らいでいる。もうすぐ春なのだ。
克臣の後ろから、ジェイスと晶穂が降りてくる。これから船の定期検査をするのだという船長に礼を言い、リンたち四人はリドアスへ向けて歩き出した。
アラストの町中を抜け、郊外へとつながる道を行く。途中幾人かの知り合いとすれ違い、何処に行っていたのかと尋ねられた。しかしどの人も、「どうせまた誰かのために働いてきたんだろ?」とすぐに自分で答えを出して行ってしまう。「どうせ」という言葉の中に、呆れだけではなく親しみも含まれているようにリンは感じて、控えめな笑みで合わせていた。
リドアスは、相変わらず蔦に絡まれている。春が近付いてきたせいか、枯葉だった蔦も緑を取り戻しつつあるらしい。
リンは久し振りの我が家の玄関前に立ち、戸を開けた。
「ただいま帰りました」
「あ……」
ギギ……。年代物の戸が音をたてる。その先にある玄関ホールでは、
大きな目を更に大きくして、春直は食い入るようにリンたち四人の顔を見る。「どうした」とリンが尋ねるよりも早く、彼は声を張り上げた。
「みんな、帰って来たよ!!!」
―――ガタッ
何処かで何かが倒れた音がした。更に物が落ちる音、戸が開く音が続き、最後に幾つもの足音が近付いて来る。最早騒音だ。
ユキが二階、ユーギと
「お帰りなさい!」
「お疲れ様でした」
「お帰り」
口々に挨拶とねぎらいの言葉を言う年少組を前に、唯文がカリカリと後頭部をかく。
「お前ら、リン団長たち困ってるだろ。少しは静かにした方が良い」
「そんなこと言って、唯文
「っ、うるさいな!」
ユキに図星を突かれ、唯文の頬が赤くなる。
そうやって相変わらず賑やかな面々に、リンはほっとしていた。
「あら、お帰りなさい」
「おかえり~」
騒ぎを耳にし、リドアスにいた数人が顔を見せる。
「ただいま帰りました。皆さん、長く留守をしてすみません」
頭を下げるリンに、文里がカカッと笑ってみせた。
「相変わらず謙虚だな、お前も。心配は要らんよ、お前の弟たちが中心となって銀の華を支えてくれたからな」
「ええ。四人共、学業と共に飼い猫探しから買い出しの手伝い、それに害獣の駆除まで手分けして頑張り抜いてくれましたよ」
文里に続き、一香もそう言って四人を褒め称えた。他のメンバーも異論はないらしく、それぞれに頷いている。
リンは「そうですか」と笑みを浮かべて、傍にいたユキの頭を撫でる。髪をぐしゃぐしゃにされて顔をしかめるが、ユキはそれでも兄の手を振り払うことはない。
「お前たち、よくやってくれたな。お蔭でこっちのことを気にせず専念出来たよ」
「春直と唯文は、数日おきにわたしに報告書も送ってくれていたね。あれを見ていてもきみたちの成長を感じられたよ」
「何か、見ない間に逞しくなったんじゃないか? よし、いつでも鍛錬の相手をしてやるからな」
リンに続きジェイスと克臣にも褒められ、ユキたち四人は何処かバツの悪そうな顔をしていた。しかし「素直に喜んどけ」と文里に言われて、照れくさそうに笑う。
「へへっ。確かに四人だけだったら大変だったかもしれないけど、文里さんも一香さんもいたし、皆さん助けてくれたから大丈夫だったよ」
「そうだね、ユーギ。アラストの人たちも兄さんたちがいないことは知ってたから、無茶なお願いはしてこなかったし」
「それよりも、畑で採れた野菜とか獲れたての魚とか持って来てくれましたよ」
春直によれば、昨日も大量の野菜と魚が届けられたらしい。そろそろリンたちが帰って来るらしいと、何処かで噂が出回ったのか。
何となく呆れながらも、リンはアラストに認められていることを実感して嬉しくなった。それはジェイスや克臣も同じらしく、ユキが体を使って根菜の大きさを説明する姿を嬉しそうに眺めている。
「みんな、頑張ってくれたんだね。本当にありがとう」
「いや……。それは晶穂さんたちも同じか、それ以上だったんじゃないですか?」
晶穂に
「そういえば、エルハさんとサラさんの姿が見えないですけど、何かありました?」
「あ……」
「ジェイスさん、このことは知らせてなかったんですか?」
言葉に詰まった晶穂の反応を見て、リンがジェイスに尋ねる。ジェイスがリンたちの帰る日を、リドアスに知らせていたはずだ。しかもそれを水鏡で知らせたのは今朝のはず。何故唯文たちが知らないのかと言うリンに、ジェイスは少し表情を改めた。
「水鏡で言うことも出来たけど、これはちゃんとみんなの前で言う方が良いかと思ってね」
本人たちがいないのは、どうしようもないけど。ジェイスが苦笑い気味に付け加える。確かに、一人一人に伝わるよりは早いし正確だ。リンは軽く息をつき、その場にいる全員を見渡した。
「察しているかもしれないですけど、エルハさんとサラは、ここには戻りません。二人共、ノイリシア王国で生きていく決意をしました」
「……おや」
きょとんとした一言が文里の口から滑り落ちる。それからその場が大騒ぎになるのは、至極当然のことだった。
家が燃えている。人が燃えている。―――里が、燃えている。
息をするのが苦しい。足を動かすのが辛い。
だけど、進まないわけにはいかない。
翡翠色の髪を振り乱し、炎の中を駆ける。
何処かで怒号が聞こえるが、そんなものに構っている暇はない。
今は只、離れなければ。
今は只、あの子を助けることだけを考えろ。
置いてきたあの人は、無事だろうか。頭をもたげる不安と悲壮な運命の思考、それらを首を振って追いやる。今すべきは、走ること。
涙が止まらないその瞳は、炎の揺らめきをはっきりと映し出していた。
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