第293話 酸性の雨

 しとしとと降り注いでいた雨から、次第に激しい豪雨となっていく。

 そうなれば、こんな狭い室内はすぐに水でいっぱいになってしまいそうなものだ。しかしそうはならず、床には水たまりもない。

 どうやら雨水は床にたどり着くと同時に蒸発し、また上から降るということを繰り返しているようだ。

 ―――ジュッ

 肩に落ちた一滴から、小さな痛みが発せられる。ジェイスが極わずかに目を見開くと、そこには火傷に似た傷が出来ていた。

 その後に降る雨も、少しずつ身を削っていく。見れば、部屋の家具もものによっては一部溶けていた。

「酸性雨、か」

「ご名答」

 イズナは身軽に控えめなシャンデリアのような照明にぶら下がると、勢いをつけて跳び下りた。ジェイスの背後に着地すると、振り向きざまに刃を閃かせるジェイスと交える。

 キンッという金属音が幾度も重なり、一本の照明器具が倒れた。

 大雨の中だというのに、イズナの体は全く濡れていない。対して、ジェイスはずぶ濡れだった。どうやら、雨がイズナを避けている。

 一旦イズナと距離を取り、ジェイスは王と晶穂をかばうように立つ。

「きみの魔力は水だと思っていたけど、酸性雨まで降らせられるとはね」

「驚いたか?」

 期待を込めてイズナが尋ねると、ジェイスは「いや」と首を横に振った。

「きみがネクロ配下と知った時点で、予測はしておくべきだったと思っているよ」

 ネクロの持つ魔力は毒だ。毒と言えば、人体に悪影響を及ぼすもの全てに名づけられる総称の一つと言っても良いだろう。その中には、ものを腐食させる強酸性を与える力があってもおかしくはない。

「つくづく、厄介だね。違法魔力というものは」

 嘆息気味に笑うジェイスは、イズナの動きを注視しながらも背後を気にしていた。

 勿論病床の王と晶穂を一人で守り抜かなければならないわけだが、それに関しては余り心配はしていない。不安視しているのは、晶穂の体調だった。

 ここ数日、晶穂は夜休む時以外はほとんどこの部屋にいる。毒に長年侵され続けた王の目覚めを促そうとするためなのだが、目に見えて彼女自身が憔悴しているのだ。

 最も近くに居てやって欲しいリンもまた、この国を守るためにネクロと死闘を繰り広げている。そんな彼に晶穂のことを気遣ってやってくれとは言えないではないか。リン自身もまた、無理を重ねているのだから。

 そのリンも強力な毒に侵されながら戦っているとは、流石のジェイスも知らない。

「晶穂」

「大丈夫です、ジェイスさん。必ず、勝ち取りますから」

 わずかに乱れた息を弾ませ、晶穂が笑う。いつの間にやら、強くなってしまったらしい。

「わかったよ」

 晶穂の頭を撫で、ジェイスは苦さを伴った笑みを浮かべる。全てが終わったら、二人っきりで過ごさせてやろうと誓う。

 ならば、こちらのやるべきことに戻ろうか。

 窓の外からは、幾つかの人の声がする。その緊迫した様子から、王宮の衛兵が階下の庭に集まっているのだろう。また、廊下にも突入せずに待ち構える集団の気配がある。

「どうする? 外にもきみの敵が集まっているようだけど」

「敵、か」

 吐き捨て、イズナは腕を交差させた。

「ただのほほんと平和ボケしている奴らに、俺たちが止められるとでも?」

「止めてやるさ、わたしがね。それに、リンや克臣たちだって戦っているんだ」

「やってみろ!」

 その言葉と同時に放たれた滝のごとき水流を跳んで躱し、ジェイスは後方に左手のひらを向けた。床から天井までを覆う結界を築き、それを蹴って飛び上がる。

 空気から創った弓に矢をつがえ、一気に五本を放った。

 その一部はイズナの頬と腕、足をかすり、イズナの動きを鈍らせる。しかしイズナもすぐに体勢を建て直すと、接近してきたジェイスの腹を蹴り跳ばした。

 ───どんっ

「ジェ……!」

「集中を切らさないで」

「はいっ」

 結界の壁に背中からぶつかったジェイスを心配した晶穂だったが、反対に叱咤されてしまう。今やるべきことに集中するため、晶穂は再び目を閉じた。

 ジェイスは結界に手をつき、詰まっていた息を吐き出した。それからイズナを睨み付け、彼を止める術を探る。

 相変わらず雨は降り続き、ジェイスの肌や服を焼いていた。ぽたり、と前髪から落ちた水滴が、靴を汚す。

 ジェイスは自身の頭上に雨避けの板を創り出し、イズナを拘束すべく動き出した。

(とりあえず、彼を衛兵に引き渡すことを優先させよう)

 矢で壁にでも拘束出来れば楽なのだが、それは簡単にはさせてくれないだろう。ジェイスは魔力で空気を太い紐に変え、その先に重りを生成する。

 ヒュンヒュンッ。重りがある方を遠心力に従って回し、こちらを警戒して近づいて来ないイズナの足首を狙う。

 イズナの方からは、ジェイスが何をしているのか見えない。透明な武器だから仕方がないのだが。

「何を狙っている?」

「さあね。手の内は簡単には明かさないよ」

 イズナは今までのジェイスの攻撃パターンからナイフや弓矢といった飛び道具を警戒し、何かが投げられた瞬間に天上の照明に飛び移った。

「―――!?」

「狙い通り、だな」

 あと数センチで手が届くという時、急に体を引っ張られた。右足に何かが巻き付いているのだと気付いた時には既に遅く、イズナは床に叩きつけられ息を詰めた。

「―――がっ」

「さあ、観念したらどうだい?」

「くそっ」

 しっかりと足首に巻き付いた何かは、暴れたくらいでは取れない。イズナはせめてもの抵抗にと、幾つもの水を圧縮した弾丸を指から飛ばした。それらが幾ら体を殴打しても怯むことなく、ジェイスは真っ直ぐにイズナのもとへと向かう。

 イズナを拘束している紐の端は、王のベッドの柱にくくりつけてある。これならば、ちょっとやそっとのことでは外れまい。

 ―――バシュ

 ジェイスの右腕に弾丸があたり、血がにじむ。水とはいえ、圧力を極限まで高めたそれは、凶器以外の何ものでもない。

 それでもジェイスは前進をやめず、イズナの傍に腰を下ろした。イズナはその顔に恐怖と絶望、そして諦念を貼りつけていた。

「く……来るな」

「残念だけど、それは出来ない。……わたしには、きみを引き渡すという義務があるからね」

 イズナの足首を拘束していた紐を消し、ジェイスは新たに拘束具を創り出した。イズナの両手を後ろに回させ、空気の輪で縛る。

 その時、勢いよく部屋の戸が開かれた。

「失礼する!」

 衛兵の戦闘に立っているのは、アゼル武官長その人だ。背後に複数の部下を従え、アゼルはジェイスと晶穂に目礼し、イズナに視線を移した。

「イズナ、王国転覆を計った者への協力者として連行する。素直について来い」

「……わかり、ました」

 アゼルの部下のよって連行されるイズナは、一度だけジェイスを振り返った。

「……初めて、本気で戦える相手に出会えた。礼を言うよ」

「きちんと罪を償って、またわたしに会いに来ればいい」

「……! そう、だな」

 ジェイスの言葉に目を見開き、イズナはわずかに目を和ませた。

 素直に衛兵と共に去って行くイズナを見送り、ジェイスはアゼルから挨拶を受けていた。

「助かったぞ、ジェイス殿。礼を言おう。我々では、彼を拘束するなど出来なかった」

「わたしは戦っただけですよ。……彼が更生出来るよう、力添えを頼みます」

「善慮しよう」

 二人の間で交わされた約束は、何年もの時を経て果されることになる。


 アゼルが王の部屋を辞そうとした時、晶穂が「あっ」と声を上げた。

「ジェイスさん、アゼル武官長……」

「どうした、晶穂?」

「王様が……」

 晶穂がわずかに震える声で、王の口元を指す。アゼルが、普段からは想像も出来ないような焦燥の表情でやって来た。王の口元を見て、声を失う。

「……グロ。ゴー……」

「王……ッ」

 何者かを呼んだ王は、再び眠りについた。

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