第290話 巨体の化物
黒々とした糸が全て切れると、その中にあるものが姿を現す。そこにネクロはおらず、ヒト型の何かが立っていた。
濃い紫色の
人の目があるところが黒く輝き、リンを見据える。リンは、背中を嫌な汗が伝っていくのを感じずにはいられなかった。
「お前は……」
「誰だ、と言いたいのか? ククッ」
紫色のそれは、喉を鳴らすように笑ったようだ。
「わからないのか? ……そうか、私はとうとう魔の巨人となることが出来たのだな」
「……魔の巨人、だと?」
「魔の巨人を知らないようだな」
何かは両手を広げ、得意げに言う。口はない。しかし、声がするのだ。
「お前らが違法魔力と
「……つまり、力に見入られ取り込まれた成れの果て、か」
「お前がどう思おうと構わん」
魔の巨人とのたまうそれは、広げた両手の間に魔力の塊を創り出した。それは花の形となり、中心はリンの方を向く。
「どうせ、死ぬのだからな」
「───!」
先程の何倍もの量の花びらが、吹雪となってリンに降り注ぐ。リンは両手を顔の前で交差して尚且つシールドを作り出して耐えたが、吹雪が収まった途端、がくりと膝をついてしまった。
「これ、は……魔力が」
「そう、お前の魔力の半分程を頂いた。魔種の力の源だ。……立ち上がれまい?」
「……ネクロ」
心底可笑しそうに喉を鳴らすそれは、やはりネクロらしい。らしいが、ケタケタと笑うその異質な姿からは彼の痕跡は
リンが剣を杖代わりにして立ち上がると、ネクロだったものは軽い動作で跳躍した。
まるで獣のような動きで、後方へと下がる。それは左右を見渡し、鼻で笑った。
「邪魔物が多い、な。排除から始めよう」
そう言うと、先程創り出した花を高く掲げた。幾重にも重なる花びらを持つそれから、噴水の如く花びらが噴き出した。
「客席には結界が……!」
「そんなものは関係ない」
見てみろ、とそれは自分の後ろを親指で指した。リンが目をやると、そこには恐怖に震える観客の女性がいた。彼女だけでなく、男も女も、老人も子どもも、皆が顔を青くして震えていた。
「……ゃ、バケモノ」
少女がネクロだったものを指差して言う。それを合図に、闘技場は混沌と化した。
本当は、彼女の声がきっかけではなかったのかもしれない。しかしその言葉と同時に混乱が生じたことも事実であり、また、小さな混乱がさざ波のように広がって大規模になったこともまた、事実なのだ。
あちらこちらで悲鳴と怒号が交わり、弾ける。人の言葉という形を失ったそれらの声を助長するように、ネクロは花吹雪を舞い散らせた。
花びらは、一枚だって観客のもとには届いていない。しかし、そんなことは最早関係がない。
リンは己に降りかかるもの全てを蹴散らすため、痺れと痛みを無視して剣を振った。
「うわっ」
「
後ろからふくよかな男に押された融が転びかけ、ジスターニが彼の首根っこを掴まえた。当然のごとく首が絞まり、融は彼の手をバンバン叩いた。
「おおっと、悪いな」
「……けほっ。悪いな、じゃないですよ。真面目に死にかけました」
何度か咳をして呼吸を落ち着かせた融は、逃げ惑う人々を呆れ顔で見た。
「今になって、恐怖が興奮を追い越したんですね」
「まあ、あんなバケモン見せられたらなぁ」
ジスターニの視線の先には、ネクロだったものの姿がある。その先に立つリンの満身創痍ぶりは、克臣の胸をえぐった。
「……リン」
無意識に手のひらから愛用の大剣を取り出した克臣は、いつでも飛び出せる体勢を取った。
その彼の肩をつかんで引き戻したのは、ジスターニだ。
「お前、動けば結界が崩れるんじゃなかったのか?」
「こんだけ混乱しちまえば、結界があろうとなかろうと関係ない……と言えれば良いんだけどな」
未だ花吹雪舞う闘技場を見つめ、克臣は嘆息した。
克臣も、自分の役割を忘れたわけではない。何かあった時、観客が逃げおおせるまでの間を保つ。その役割さえ果たしてしまえば、後は何とでもなる。
「だから、ジスターニさんに頼みがあるんだ」
「引き受けよう」
「まだ何も言ってないぞ?」
克臣が目を見張って問うと、ジスターニは苦笑いを見せた。目尻にしわがよる。
「どうせ、オレに観客を全て外へ逃がせと言うのだろう? オレは頭は悪いが、そういうことは得意だ」
「……門の前で一日ぼーっとしてますもんね」
「そうだったか?」
融の言葉をすっとぼけて躱し、ジスターニは二人に「耳を塞いでおけ」と命じた。
克臣と融が耳を塞ぐと、ジスターニは手に持っていた鉄の棒を勢いよく地に打ち付けた。その音は地鳴りとなって人々に届き、多くの人々が動きを止める。
次いでジスターニは腹から息を吸い込み、空気を大きく揺らす程の大声を張り上げた。
「我が名は、ジスターニ。ヘクセル姫の側近なり! 皆の者、続け!」
もう一度、地震計が計測しそうな揺れを引き起こして棒が鳴る。これにより、闘技場に残る人々の七割がジスターニに気付いた。
気付いていなかった人々も、近くにいた人の指摘で気が付く。今や、闘技場全体がジスターニに注目していた。
───カタリ
椅子が引かれる音がした。微細な音だが、静まり返った中ではよく響く。
リンとネクロも、椅子から立ち上がった者のことを見た。彼は、まなじりを上げて腹から声を出す。
「皆、逃げ惑うな! 我らが必ず皆を守る。ゆっくりと確実に外を目指せ」
「……やるな、王太子サマ」
イリスの喝に、克臣は舌を巻いた。
ようやく荒れた恐怖の波は落ち着きを見せ、観客が順に速足で闘技場から姿を消していく。
リンはイリスと視線を合わせ、会釈した。彼の表情が、リンには激励に見えた。
「……ちっ。邪魔立てを」
ネクロはない舌で舌打ちし、イリスに向かって花を繰り出した。しかし結界に阻まれ、傷付けることは出来なかった。
「避難が終わるまで、お前は俺と遊んでいろ!」
リンは翼で上昇し、頭上からネクロに畳み掛ける。一閃、一閃、一閃。それら全てが跳ね返されようと、決して留まらない。
ようやく避難が完了した時、闘技場を覆っていた結界にヒビが入った。
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