第287話 侵蝕

 リンの光のカッターにより、幾つもの球体が破壊された。ぐにょんと曲がり、パンッと弾ける。その飛散した液体に触れないよう、リンは細心の注意を払ってそれらから逃げおおせた。

 ―――バシャン

「何っ!?」

 リンの足元で小さな球体が壊れる。それは大きなものに隠れて気配もくらまし、辿り着いたものだった。

 慌てて躱した時には既に遅く、ズボンの裾が溶けて、くるぶしが見えた。その肌も少しただれている。

「くそ……」

「ふふ。それは溶かすタイプの毒だ。この大きさだから、それくらいで済んでいるけど……」

 ネクロは人差し指の先に同じような球体を出現させ、ビー玉くらいの大きさからサッカーボール、そして大型犬くらいの大きさにまで巨大化させた。

「これくらいの大きさになったら、どんなダメージを与えられるかな?」

 楽しげに言うと、ネクロは同じ大きさの球体を量産し、リンに向かって降り注がせた。

 おそらく、これも真面に食らえば命はない。リンはそう考え、球体の更に上を目指して飛び上がった。

 闘技場全体を見回すことの出来る位置に来て、リンはようやく客席の様子まで見ることとなった。客席の中程には王族専用の観覧席があり、イリスが硬い表情をしてこちらを見詰めている。隣にいるのは文官長だろうか。武官長は傍にはいないようだ。

 イリスと目が合った気がした。その目に焦燥が映る。

「───!」

「おや、残念」

 ネクロはそれほど残念に思ってもいないような顔で、わざとらしく肩をすくめた。リンはひらりと躱したものの、天に向かって飛び上がった球体はブルッと震えて四散した。

「しまった!」

 このままでは、毒液が客席にも降り注ぐ。リンの危惧はネクロの想像通りであったのか、遠目でもくすくすと笑っているのがわかった。

 客席でも気付いた人がいるのか、ざわついている。誰かが叫び、混沌が巻き起ころうとしていた。

(急降下して毒より先にシールドを張るか……? だがっ)

 幸い負傷しているのは足のため、翼には何の問題もない。しかし、液体よりも早く客席まで戻ることが出来るかはわからない。

 逡巡したのも一瞬だ。ジクジクと痛む足を無視し、リンは真っ逆さまに下降することを選択した。

 激しい向かい風がリンを襲う。押し戻されそうになりながらも、リンは毒液の先を目指してと落ちていく。

 最も空に近い客席から悲鳴が上がる。ただ人や獣人には、身を守る魔力を持つ者はいない。犬人の母親が幼い息子を、身を挺して守ろうとする姿が見えた。

 その時だった。

「リン!」

 視界の端に、白い光が見えた。

 それは小さなビー玉くらいの大きさであるにもかかわらず、激しい白光を放っている。

 克臣は、叫ぶと同時にそれを投げ上げた。

 瞬間、目の前が白く弾けた。

 地面の気配を感じて慌ててリンが体勢を立て直して立つと、客席が白っぽい靄に覆われていた。

「な、何だこれな!?」

 ネクロが動揺の声を上げる。リンも驚きを隠せずに言葉を失う。

 彼らの姿を見て、克臣が答えを教えてくれた。

「これは、結界だよ。ジェイスがもしもの時のためにと俺に託していったんだ。白いたまを空に放り投げれば、念じた範囲に結界を作ってくれる。……これは魔力や刃物を通さないから、思いっきり戦えるだろ?」

 強力な結界はジェイスの十八番のようなものだが、闘技場全てを包み込むような規模のものまで作ることが出来るとは誰も知らなかった。どうやら、鳥人としてのジェイスの能力は、まだ限界を知らないらしい。

 リンは感心するより呆れてしまい、苦笑を漏らして克臣を見た。

「ジェイスさんには、読まれていたんですね」

「そうらしい。だからリン、勝ってこい」

「───はいっ」

 ───バンッ

 背中を叩かれたわけではない。しかし、克臣の言葉はリンの背中を強力に押した。

 リンは杖を剣に持ち換えると、切っ先を真っ直ぐにネクロへと向けた。

「ここからは、正々堂々と剣でやらないか?」

「くっ……。毒を蔓延させ、精神から削るつもりだったが、阻まれたか」

 悔しげに奥歯をくい縛るネクロは、腰の鞘から一本の剣を取り出した。

 ネクロの剣は、剣らしからぬ姿をしている。ボコボコと火山の火口に泡立つ溶岩のような毒の泡が幾つも出ては消え、紫の液体が染み落ちる。

「それはっ……」

 見たこともない剣の姿に、リンは絶句した。対してネクロは、恍惚とした表情で刃を撫でる。

「美しいだろう? 私の魔力によって生み出された毒の剣。これで斬られれば最期、死の国へと堕ちるのみだ」

「……。ならば、斬られずにお前を倒す」

 青を基調としたリンの剣が閃く。ギンッという重い金属音が響き、二つの刃が拮抗する。

「あまり近づくと、毒気に殺られるぞ」

「つっ」

 ジュッという嫌な音と感触に目を落とせば、剣を握る左手の甲にネクロの剣の液体が滴り落ちていた。

 徐々に失われかける感覚を奮い起こし、リンは拳を握った。血が出るほど爪で肌を刺せば、わずかな痛みとなって感覚が戻る。

「……全てを投げ出してしまえば楽なものを」

 ネクロはリンの抵抗に飽きれ、次で最後だと剣を振り上げた。

「楽じゃなくったっていい。俺は、俺が選んだ道を行く」

 リンはようやくくるぶしが癒え始めた右足を踏み締め、ネクロを迎え撃とうと構える。

 液体のようであるのに、真っ直ぐな剣としての様相を保つネクロの剣は、空間を真っ二つにするかのごとき勢いで振り下ろされた。

 ───ガキンッ

「くっ」

「何処までもつかな?」

 剣を用いて上からの攻撃から身を守ったは良いが、リンはネクロの剣から流れる毒に侵されていた。痺れを伴い、リンの抵抗力を削いでいく。

 最初に受けた毒も、リンは解毒出来ないままでいる。ここに神子である晶穂がいればよかったのだが、彼女は国王のもとだ。

「……ここに、神子とやらがいればよかったな?」

「おま……知っているのか?」

 ネクロの言葉に少なからず動揺したのは、リンが違法魔力によって力を削がれているからかもしれない。

 リンの反応が求めていたものだったのか、ネクロはせせら笑った。ぐっと剣を押す力が強まる。

「今頃、イズナが亡き者としているだろう。お前の兄貴分と共に」

「……俺は、二人を信じている」

 ネクロの言葉に惑わされず、リンはそう言い切った。二人がそう簡単に倒されるはずがない。

 リンの手に力が込められるのを感じ取り、ネクロは一瞬目を見張り、すぐにそれを細くした。

「……その虚勢、何時までもつかな」

 ネクロは一度距離を取り、再びリンに斬りかかった。

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