第282話 揺さぶり
半月が夜空に登り、星が幾つも瞬きだしている。
噴水の水面に映る夜闇の横を通り過ぎ、リンたち四人は外宮へと帰って来た。邸の明かりが窓から漏れ出て、リンはほっと息をついた。
「ただいま」
「おかえり!」
「お帰りなさい、皆さん」
ぱたぱたと奥から駆けて来たのは、ノエラとその後を追って来た晶穂だ。
ノエラはここ最近外宮にいることが多く、年長者たちが皆忙しそうにしていて不満らしい。ぱっと明るくなった表情のまま、ノエラはリンに突撃する。
「うおっ」
抱きつかれてバランスを崩しかけ、リンは何とかその場に留まった。彼女の後ろからは政務を終えたヘクセルがやってきて、ひょいっと妹を引きはがす。
その際、リンの手に触れることをヘクセルは忘れない。リンは無反応なため、その効果は著しく低いのだが。
「リン、ごめんなさい。ノエラ、皆さんが帰って来るのを今か今かと待ち焦がれてたんですわ」
「はなしてよ、あねうえぇ」
「だーめ。ほら、クラリスと遊んでいて」
「はぁい」
ぶーたれるノエラに、苦笑気味のリンは腰を落として視線を合わせた。
「ごめんな、ノエラ。みんなと話があるんだ。それが終わったら、少しの時間でも遊ぼうか」
「うんっ」
天使の笑みを浮かべ、ノエラはクラリスと共に姿を消した。
「相変わらず騒がしいな、あの嬢ちゃんは」
「それがあの姫の良い所だろうね。どんなに暗い空気もあの子がいれば、明るくなる」
ノエラについて克臣とジェイスがそれぞれ評し、リンたちも同意する。彼女が清涼剤であることは間違いないのだから。
「リ……」
「リン、奥でエルハたちが待ってるわ。皆さんも、食事をしながら報告会を致しませんか?」
一歩前に出ようとした晶穂を遮り、ヘクセルがリンの腕を取る。ジェイスと克臣が「おお?」という顔をして、成り行きを見守っている。
―――ずきん
「―――っ」
晶穂は胸の奥が痛むのを感じ、きゅっと胸の前で手を握り締めた。
「……わかりました。行きましょう」
リンはあからさまでないよう気を付けながら、すっと腕を引いてヘクセルから逃れる。ヘクセルもそれに気付いたはずだが、おくびにも出さずに彼の後を追おうとする。
ちらり、とヘクセルは晶穂の顔を見た。そして少し血の気のひいている彼女の顔色を見て、くすりと笑う。
「揺さぶり成功」
「ヘクセ……ッ」
晶穂にしか聞こえない声量でそれだけ言うと、ヘクセルは晶穂の制止を無視してリンの後を今度こそ追った。
一瞬の出来事を見ていたジェイスと克臣が、唇を引き結ぶ晶穂に寄り添った。
「彼女、リンを狙ってるようだね」
「だな。……おい、晶穂。顔色が悪いが大丈夫か?」
「え? ……あ、大丈夫ですよ! ほら、エルハさんたちも待ってますから行きましょう」
「あ、ああ……」
「そう、だね?」
無理矢理笑みを浮かべる晶穂にぐいぐいと背を押され、克臣とジェイスは邸の奥へと消える。後に残った晶穂は、人知れず大きなため息をついた。
ヘクセルがここまでやるとは、正直思っていなかった。リンを狙うというのも晶穂を慌てさせて楽しんでいるだけだと高をくくっていたが、どうやら本気らしい。
彼女は、一国の姫だ。それだけでなく、兄王太子を助けて政務をこなし、妹姫の面倒まで見ている。有能で、見目麗しく、決して高飛車でもない。
どれもこれも、晶穂にはないものだ。ないものねだりとわかっていても、晶穂とヘクセルは違うのだと理解していても、心が負の感情へと傾いていく。
「もしも……」
ぽつり、と呟く。
(もしもリンと出逢うのがヘクセルよりも遅かったら、わたしは……)
イフは、いくら考えてもイフでしかない。そうとはわかっていても、晶穂の胸は否が応でも締め付けられた。
「晶穂……?」
「あ、
晶穂の前に現れたのは、フードを取った融だった。彼の紫色の瞳が細められ、眉間にしわが寄る。
「どうした? もうみんな食堂にいるけど。晶穂の姿がなかったから、部屋に入る前に探しに来たんだが」
「あっ、そうですよね。すみません。今行きます」
融の横を通り過ぎかけた晶穂の腕が、何者かに捉まれる。誰かと顔を上げれば、そこには心配そうな融の顔があった。
「大丈夫か」
「大丈夫ですよ。ほら、早く行かないとみんなを……」
待たせていますから。晶穂の言葉は、それ以上続かなかった。
「―――おれなら、そんな顔はさせないのに」
「融、さん?」
融の腕に抱き締められ、晶穂は困惑の表情を浮かべる。どうして融がこんなことをするのか理解出来ずにいる晶穂に、融は切なげに顔をしかめた。
その融の顔は、晶穂には見えていない。
一瞬だけ腕に力を籠め、融は晶穂を解放した。
「ほら。行くんだろ? おれもすぐに行くから、先に行っておいてくれ」
「あ、はい」
晶穂の顔がわずかに赤いのは、きっと気のせいだろう。融はぱたぱたと走って行く晶穂の背を見送り、小さくため息をついた。
晶穂に触れた手が、小刻みに震えている。これはもう、誤魔化しも効かない。
「……おれも、行かなきゃな」
自分には、昼間のことを報告する義務がある。ジスターニだけでは詳細な話をすることは出来まい。
晶穂の泣きそうな顔を思い出し、融は
彼女の悲しみを癒せるのは、決して自分ではないとわかっていた。
(とんでもない所に来たな)
自分と同じ空間にノイリシア王国の姫君とその側近たちがいて、更にはソディリスラからやって来た青年たちがいる。もっと言えば、これから王太子も顔を見せるというのだから、この会合の顔ぶれの豪華さがわかろう。
テーブルの上にはそこそこ豪華な食事が乗っている。王宮料理のように豪奢でないのは、それを望む者がここには一人もいないからだろう。
「すまない、遅くなった」
「兄上、お疲れ様ですわ」
ひょいっと顔を覗かせたイリスに、ヘクセルが席を勧める。それを素直に「ありがとう」と受け、イリスは集まった全員の顔を見た。
「今日は皆さんありがとうございました。お蔭さまで、運営に関わるようなアクシデントは起こらずに済んだよ」
運営に関わるようなアクシデントは起こらなかった。しかし、それ以外は起こっている。
「とりあえず、食べながら話そうか」
イリスの言葉に一同が頷き、穏やかな夕食が始まった。
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