第272話 姫君の牽制
「……え?」
何を言われたのか理解出来ず、晶穂は思わず聞き返した。するとヘクセルは「何度も言わせないでよ」とため息をついた後、もう一度声に出した。
「リンを、わたくしにくださらない? 彼のこと気に入っ……」
「ダメ、です」
「あら、被せ気味の即答なのね」
くすくすと可笑しそうに笑うヘクセルに、晶穂は顔を真っ赤にして叫んだ。
「リンはわたしの大切な人ですっ。だから、あげるなんてことは出来ません!」
懸命になりすぎて肩で息をする晶穂に、ヘクセルは意味ありげに目を細めた。
「わたくしだって、リンを好ましく思ってるわ。あんなに他人のことで一生懸命になれるなんて美徳だと思うし、見目も良い。きっとファンクラブなんかもあるんではなくて?」
「……あなたの評価には賛同しますけど、彼の魅力はそれだけではありません」
「はっきりと言うのね。わたくしは、あなたを小心で奥手なお嬢様だと思っていたけど……撤回した方がいいかしら」
小心で奥手。それは決して間違いではない。ただお嬢様というには、晶穂の出自は特異過ぎる。
晶穂はそれをわかっていつつも、どくんどくんと緊張する胸元を握り締めた。
「もし、あなたがリンを好きだと言うのなら、それを撤回させる権利はわたしにはありません。だって、それはあなたの気持ちだから。……でも、それとリンの傍を離れることとは別問題です」
すっと顔を上げ、赤く染まった顔で晶穂はぎこちなく微笑んだ。
「わたしの想いは、絶対に誰にも負けません」
「なら、わたくしはその自信を崩し去って差し上げるわ」
楽しみにしていて。そう言うと、ヘクセルは日傘を閉じて歩み去った。真っ直ぐに伸びた姿勢が美しく、衣装の綺麗さがなくとも充分に魅力的な女性である。
「……はぁ」
ヘクセルの姿が見えなくなり、晶穂は近くにあった渡り廊下の手すりに背中を預けた。ずるずると座り込み、顔を腕に埋める。これからノエラとの約束があるが、このままでは不審に思われかねない。
まずは、顔の熱を取らなければ。ぺちぺちと頬を手のひらで叩いていた晶穂の上に、影がかかった。
「全く。こんなところであんなこと叫ぶなよ」
「あ……。り、リン?」
「……そうだよ」
晶穂の体を、瞬時に羞恥が駆け抜ける。湯下でも出そうなほどに顔を真っ赤にしてうつむく晶穂に、リンは不器用に笑った。
「ありがとな。……俺も、お前を手離す気なんてないから」
「う……。そんな恥ずかしい台詞、いつの間に言えるようになっちゃったのぉ」
「う、五月蝿いな! 俺だってこんなこと言うのは、お前と二人きりの時だけだ!」
ガッシャン。何の音かと晶穂が反射的に顔を上げると、そこには影になったリンの真剣な表情がある。どうやら覆い被さるようにして、リンは手すりを両手で持っているらしい。
「……っ」
逃げ場を奪われ、晶穂は真っ赤な顔を背けたくなった。しかし、リンの目力がそれを抑制する。
ルビーのような赤色の瞳に吸い寄せられるようにして、晶穂の瞳が揺れた。
「晶穂……」
「え。ちょっとまっ……!」
リンの右手が晶穂の頬を撫で、晶穂はぴくりと体を震わせた。この後に起こるであろうことを想像し、きゅっと目を瞑る。
だが。
「こんなとこで、あんな恥ずかしいことするかよ……」
ぽんっと頭に置かれたリンの手が熱い。リンが空いている手の甲で、自分の口元を覆う。どうやら未遂にもならなかったらしい。
少し残念に思う自分の気持ちに慌てながら、晶穂はその優しい手に身を委ねた。
その穏やかでくすぐったい時間は、本当に短い時だったかもしれない。それでも晶穂にもリンにも、代えがたい永遠と思えた。
「……そろそろ、行くから。ジェイスさんと克臣さん待たせてるし」
「鍛練の途中だったの? どうして……?」
危ない目にあっていたわけではない。それなのに何故かと問うと、リンはカアアッと顔を赤くした。少しぶっきらぼうに、呟く。
「……彼女が絡まれてたら、助けに行くだろ。普通」
「か…かの、じょ。そっか……」
「……じゃ。菓子、楽しみにしてるわ」
そう言って、リンは片手を挙げて歩いていった。まさか、戻りながら「冷静に冷静に……」と自分に暗示をかけつつ歩いているとは、晶穂には思いもよらない。
「……はぁ」
ぺたんと地面に座り込み、晶穂は手で顔を覆った。
こんな状態でノエラの部屋には行き辛い。しかし、時間が欲しいと願った矢先にその願いは崩れた。
「おねえちゃん、おなかいたいの?」
「の、ノエラ !?」
驚く晶穂にかくんっと首を傾げ、ノエラが晶穂の顔を覗き込んだ。いつの間にか、傍にいたらしい。
「おねえちゃん、くるのがおそいから、むかえにきたの」
そう言って、邪気のない瞳が晶穂を見つめている。小さな手が晶穂の額に触れる。
「おねつ? あついよ?」
「あ、大丈夫。お熱じゃないから!」
ノエラの手を取って離し、晶穂は曖昧に笑ってみせた。きょとんとしたノエラは、ぱっと笑みを浮かべた。熱があるわけではないとわかって安心したのだ。
「そうなの? ……じゃ、いこ!」
「あ、引っ張らないでよー!」
小さなお姫様に導かれ、晶穂は彼女の部屋へと向かった。
しかし流石にキッチンはなく、外宮の調理場の一部を借りてお菓子作りをすることになる。ノエラでも楽しめるようにと、チョコとプレーンのクッキーを選択した。
調理場には動物や植物、建物など様々な形のクッキー型があり、ノエラが好むものを選んでもらう。花、星、うさぎ、犬など可愛らしい型が並び、それらで抜き取られた生地がオーブンに入る。
「まっだかなぁ~」
にこにこと焼き上がりを待ち望むノエラの横で、晶穂はアイシングするための用意に勤しむ。薄桃や水色、黄緑など淡いパステルカラーのアイシングは、心をうきうきさせてくれる。
全てのクッキーが焼き上がり一部にアイシングを施し終えたのは、クッキーを作り始めてから二時間後のことだった。
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