第266話 病床の男に捧ぐ決意
イリスと別れ、ヘクセルはエルハを連れて王宮内を歩いていた。その足は王宮の奥へと向けられ、エルハは何となく彼女が何処へ向かっているのかを察した。
「ちょっと、ヘクセル」
「あ、わかっちゃったかしら?」
手首をつかまれ、ヘクセルは舌をちろっと出した。エルハはため息をつくと、目の前にある豪奢な扉を指差した。
「『わかっちゃたかしら?』じゃないだろう。……ここは、父上の部屋だ」
「ええ。でも今、父上は常に眠っておられる状況だから、エルハが会ったところで問題はないんじゃないかしら?」
「……そっちはないだろうけど」
僕にはあるんだよ。既に及び腰のエルハを逃がさぬように、しっかりと腕を掴んだヘクセルが戸を開こうとした時。
「―――おや、姫様」
「ゴーウィン。いつも父上の世話をありがとう。今日も変わりなく?」
「ええ。相変わらず眠っておいでなので、水分だけは取っていただきましたが……」
手に持ったポットを掲げてみせた後、ゴーウィンは目をヘクセルの隣へと移した。そこにいるはずもない人物の姿を目にして、線のように細い目が大きく開かれる。
よろり、とゴーウィンが足元をおぼつかせる。ヘクセルに支えられて体勢を戻し、彼は改めてエルハをまじまじと凝視した。
「エルハルト、様ですか?」
「あの時は、すげなくして申し訳ありませんでした。事情があって、ここにいます。お見知り置きください、ゴーウィンさん」
深々と頭を下げるエルハに、ゴーウィンはほっと安堵の顔を見せた。よかった、と小さな呟きが漏れる。
「王が、ずっとあなたを心配しておいででした。ただ自ら出て行ったのを追うのはよくなかろうと、かん口令を敷いて探すこともありませんでしたが……、もし今目を覚まされたら、どんなに喜ばれましょうか」
「父上の目に映るつもりはないんですけどね。でも、思った以上の状況でしたから」
「ゴーウィン、この子も父上を助ける手伝いをしてくれることになったのよ。そして、その仲間たちも!」
「……。おお、そうなのですか! それは頼もしい限りですね」
一瞬の瞠目の後、ゴーウィンは嬉しそうな顔のヘクセルに目じりを下げた。エルハの腕を抱き締めるように引き寄せたヘクセルは気付かなかったが、エルハはふと違和感を覚えた。
(……いや、気のせいだ)
何処に敵の目があるかわからないからと言って、何でもかんでも疑うのは良くない。エルハは軽く頭を左右に振り、引っ張るヘクセルに従うような形で王の自室へと入った。
「……」
彼ら二人の背中を見守り、ゴーウィンは手にしていたポットを片付けるために踵を返した。
王の部屋は、豪奢を尽くしたものではない。どちらかといえば質素で、シンプルで品の良い家具が並んでいる。木の風合いを大切にした机や椅子、タンスなどがある。
そんな中、柔らかな毛布に包まれた初老の男がベッドで眠っていた。シックサード・ノイリシアその人である。
エルハが覚えているよりもしわと白髪が増え、赤みの少ない顔色は彼が病に侵されていることを如実に示している。大柄な体つきの癖に繊細な心を持った男だったが、兄弟姉妹分け隔てなく育ててくれたものだ。
「父上、エルハルトが帰って来ましたわ」
ヘクセルはベッド脇の椅子に座り、骨ばった父親の手に触れた。しかしシックサードが目を開けることはなく、荒い呼吸を繰り返すのみ。
エルハの胸がチリッと痛んだ。
そっと身をかがめて父親の指に触れ、エルハはその細さに驚いた。角ばってはいたが、もっと力強かった記憶がある。それほどまでに、ネクロの毒が父親を蝕んでいる。
「……また、あなたを父上と呼ぶ時が来るとは思いませんでした」
エルハは何処か安堵に似た苦笑を浮かべ、そう呟いた。傍にいたヘクセルには、その呟きが己に向けられたものなのか父親に向けられたものなのかを判断することは出来なかった。
「……ヘクセル」
「な、何?」
どうして連れて来たんだ。そう文句の一つでも言われるかと身構えたヘクセルに、エルハは意外な言葉を口にした。
「ありがとう、連れて来てくれて」
「―――え」
「お蔭で、決心がついたよ」
「決心? 何の……」
「それは秘密」
口元に人差し指を立て、エルハは微笑した。
シックサードのベッドの傍には、本や飲み物を置くための小さな机が備え付けられている。そこには今、水気のあるものを置いた跡があるだけだ。おそらく、ゴーウィンが持っていたポットの水滴だろう。
「さあ、行こうか。ヘクセル」
エルハは立ち上がり、父に背を向けて部屋を出ようとする。その姿を追い、ヘクセルは問いかけた。
「行くって、何処に?」
「勿論、挨拶をすべき人のところにだよ」
エルハは王の部屋を出ると周りに人のいないことを確かめ、渡り廊下から上階へと跳んだ。後を追って出て来たヘクセルがぽかんと見守る。
その次の階にも手首のスナップと跳躍力で上がり、居合わせた役人を驚かす。
「あ、すみません。すぐ消えますんで」
そう言うが早いか、エルハの姿は王宮の塀の上にあった。いつの間にか中庭も省の建物も跳び越え、走り抜けていたらしい。
「ちょっ、エル……!」
「ヘクセル様、先に向かいます」
エルハはヘクセルを残し、持ち前の運動神経をいかんなく発揮して姿を消した。
「……」
一陣の風が、絶句したヘクセルの長い髪をもてあそぶ。顔にかかった髪を手で整え、ヘクセルはようやく我に返った。
「……エルハルトって、あんなに運動神経よかったの?」
いつも書庫で本を読んでいた日陰の王子の何処に、あんな能力が隠れていたのか。日向よりも日陰にいることを好み、人前を嫌っていた小さな弟が。
「あ。……ま、待ちなさいーーー!」
行儀が悪いことを承知の上で、ヘクセルは思わず叫んで走り出した。こんな時、自分のドレスが質素で落ち着いたデザインのものでよかったと心底思う。
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