第262話 武官省

 西日はいつしか夜闇へと変わりつつある。

 リンは、晶穂に融が「謝りたい」と願っていることを伝えるべきが迷っていた。

 何故なら、融が晶穂を見つめる目がただ恩人に向けるそれではなかったからだ。

「こんなところで、奪われてたまるかよ」

 ようやく抱き締めることが出来た、何よりも大切なひとなのだ。

 一時は永遠に別れることも覚悟した。それでも、必ず探し出すと誓った。どれだけ離れても、世界が違っても、晶穂が自分と同じ想いを持つ限り、必ずその手を取る。

「……悩んでても、仕方ないんだけどな」

 人の気持ちは、自由だとリンは思う。感情は何にも縛られないのだから。人がどうにか出来るはずもない。

 リンは晶穂の頬に触れた。その温かさを、自分だけのものにしたいと思うのは、おこがましいと思う。でも、誰にも渡したくない。

「我儘だよな、俺」

 堂々巡りの思考を断ち切るため、リンは静かに席を立った。一度頭を冷やして、晶穂が目を覚ましたら融の言葉を伝えよう。

「―――っと」

 晶穂に背を向けて出入り口の方へと向かおうとしたリンは、何かに服を引っ張られて足を止めた。何処かに裾が引っ掛かったのかと振り返ると、晶穂の手がリンの服を握っていた。

「……無防備なやつ」

 リンは晶穂のその手を取り、布団の中に入れてやった。それから誰もいないことを確かめて、晶穂の顔に自分の顔を近付ける。

「……ゆっくり休めよ、晶穂。おやすみ」

 晶穂の額に唇を一瞬触れさせ、リンは愛しげに微笑んでその場を後にした。

「~~~~~っ」

 部屋を出た直後、羞恥でリンがうずくまったのは言うまでもない。


 エルハとヘクセルが王宮から戻ったのは、その日の夜になってからだった。

「遅かったですね、二人共。心配しましたよ」

「ごめんね、リン。みんなも。ちょっと時間がかかってしまったよ」

 エルハはそう謝ると、既に眠そうなヘクセルを自室に下がらせた。時刻は、午後十時を回っている。

 その場にいたのは、エルハとリン、それにジェイスと克臣、晶穂、クラリスと融だった。

 融は再びフードを被っていたが、目深に被ることは止めたらしい。まだ、大勢の前で取ることには抵抗があるようだ。

 リンは既に、目を覚ました晶穂に融のことを伝えている。融に頭を下げられ晶穂は困惑したが、

大事だいじなくてよかったです」

 と微笑で返した。

「あ、ああ……」

 晶穂の笑みを直視した後、融が顔をわずかに赤くしていたことについて、リンは何も言わなかった。内心拗ねたかったのだが、子どもっぽいために自制したのだ。

 それが所謂ヤキモチなのだと、リンに自覚はない。

 そんな話の後のことである。

 眠気覚ましにと緑茶を一気飲みした克臣が、エルハを見据える。本当に眠気覚ましに効果があるのかどうか、本人しか知らない。

「エルハ、夜も更けてきた。報告があるんだろ?」

「克臣さん、顔が手早く済ませろって言ってますよ。では、さっさと始めましょうか」

 エルハは指をテーブルの上で組んだ。

「僕はヘクセルが武官長に会いに行くと言うので、従者としてついていきました。武官長からネクロについて何か聞けるかもしれない、と思ったからです」

 武官省とは、その名の通り武官や兵士が所属する機関のことだ。軍事や防衛に関する仕事を責務とし、文官省と並んで、ノイリシア王国の柱とも言える。

 その本館は、王宮の正門傍にあった。石造りの堅固な建物で、壁には弓矢や鉄砲用の穴らしき小さなものが幾つも空いている。

 ヘクセルは物怖じすることもなく、エルハを先導してその中へと入っていく。何人かの武官とすれ違ったが、どの人もヘクセルに礼をして道を譲った。ヘクセルはそれに最高礼で応え、颯爽と歩み去るのだ。

 武官長は、二メートルはありそうな背丈を持つ偉丈夫だった。立派な髭がトレードマークの彼は、アゼル・ドルトーサという。

「アゼル武官長」

 ドルトーサ姓を持つ者は武官省の中に何人もいるため、名を呼ぶ。それ以外にも、この国では姓よりも名を呼ぶ傾向にあった。

 武官の訓練施設に赴いたヘクセルの呼び掛けに、アゼルは書き物を中断して応じた。彼がいたのは執務室であり、整理整頓された書棚や机上が彼の性格を物語っている。

「これはヘクセル姫様、ご機嫌麗しゅう」

「挨拶は簡単で良いわ。それよりも、兄上から預かった書類を渡しておくわね」

 ヘクセルはここに来る前にイリスに呼ばれ、自分の代わりにとお使いを頼まれていたのだ。その書類は次年度に武官省への入省を希望する人々のリストだった。

 それをパラパラとめくって確かめると、アゼル武官長は「確かに受け取りました」と頷いた。

 ヘクセルは周りに自分とエルハ、アゼルの三人しかいないことを確かめて、すすすとアゼルの傍に寄った。

「ところで、武官長だから話したいことがあるのだけど」

わたくしにですか?」

 目を見張るアゼルに、ヘクセルは違法魔力を扱う者について調べているのだと打ち明けた。これは事前にイリスとの間で決められていたことだったが、エルハは内心ハラハラとしていた。

 いくらアゼルが国王の幼馴染で懐刀的存在だとしても、部下に関する情報を渡せと言うのは酷だろう。

 しかし、エルハの憂慮は杞憂に終わった。

 アゼルは「はぁーーーっ」と盛大なため息をつくと、一言呟いた。

「……我が補佐官のことでしょう?」

「流石アゼル武官長。話が早くて助かるわ」

「これだけ噂が広がれば、また以前からの事実もありますれば、私とて調べない訳にはいきませんから」

 頬をかきながら、アゼルは苦笑いを浮かべた。

「直属の部下について話すのは気が引けるでしょうけど、こちらも父上の命がかかっていますの。申し訳ないけれど、その人について教えていただけないかしら?」

 単刀直入なヘクセルの物言いは、人によっては圧と感じるかもしれない。しかし、この時ばかりは効果ありだった。

 アゼルは頷き、二人に座るよう促した。その表情は、もう隠し通せないとの諦めと期待が込められていたように、エルハには見えた。

 部屋の外では、兵たちの迫力のある掛け声や訓練の声が響いている。何人かの武官が廊下を話しながら歩いていく。

 しかし今この時の執務室は、緊迫とした空気に包まれていた。まるで、外とは隔絶されたようだ。

 カラン。アゼルが持ってきたコップの氷が音をたてた。

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