迷い子
第232話 海の向こうには
「待ってよ、エルハ!」
リドアスを出たエルハは、真っ直ぐに町の方面へと向かっていた。その後を追うサラが、彼の腕をつかむ。
「……サラ」
「そんな顔してるのに、あたしがほっとくと思う?」
「そんな顔?」
「泣きそうっていうか、悩み苦しむっていうか、そんな顔してる」
サラに指摘され、エルハは初めて己の眉間に深いしわが刻まれていることに気付いた。
速めていた足を止め、眉間を伸ばして苦笑する。
「ごめん、サラ。心配かけたね」
「心配だよ、大好きだもん。……それに、今も苦しそうだから」
「え?」
サラの言葉に耳を疑ったエルハの手を、サラは握った。そのまま彼を引っ張る。
「行こっ」
「行くって、何処に……」
「いいから!」
困惑顔の恋人の手を引き、サラは道を町へ向かって駆け出した。
町の入り口にある市場を抜け、住宅地を抜ける。息が上がってきたが、構わずに走り続ける。
「はぁ、はぁ」
サラがようやく立ち止まったのは、海だった。幾つもの漁船や商船が行き交う港の隅にある、灯台の下だ。
何十年も前に建てられたというその灯台は、現役を続けている。何十キロも遠くからでもこの明かりを臨むことが出来、海を渡る旅人たちの道しるべとなってきた。
そのもとに到着し、二人は息を弾ませる。先に息を整えたエルハが、潮風を感じて海に目を向けた。
「ここは……海、か」
「そう、だよ。きっと、エルハがここへ来て最初に下り立った場所」
胸に手を置きながら息を整え、サラはエルハの隣に立った。茜色の髪が、ふわふわと風に遊ばれる。
「……あたしね、正直びっくりしたんだ。エルハがノイリシア王国の王子だって言った時」
「……」
「それでね、どうしてあたしに話してくれなかったんだろうって、ちょっと悲しくなった」
うーんと伸びをして、サラは灯台の根本に腰を下ろした。その傍に立ったまま、エルハは「ごめん」と口にした。
「どうしても、誰にも知られたくなかった。ただのエルハとして扱って貰えなくなるのが怖かったんだ」
身分も名前さえも偽って、ほぼ強制的に加入させられた銀の華。しかし明確な居場所を持たなかったエルハにとって、ようやく得られた誰にも文句を言われない場所だった。
「うん、そうだよね」
サラはエルハを否定せず、頷いた。
思えば、最初からこの
彼女は最初銀の華のメンバーではなかったが、もともと知り合いだった一香やサディアが加入していることもあり、学校を出た後に加わった。そしてよりエルハに関わるようになり、今に至る。
否定せず肯定するのみではなく、間違っていると考えれば正そうとする。優しいだけではないその強さに、エルハは惹かれたのかもしれない。
「もしかしたらって考えると、怖いかもしれない。でもそれって、エルハにとって銀の華のみんなが大切になったってことだよね。嫌われたくない、違う扱いをしてほしくないんだから」
「……いつの間にか、そんな風に考えるようになってたみたいだ」
「うん。人はね、時間と関係性で幾らでも変われるんだよ」
サラの笑みは、ささくれだったエルハの心を落ち着かせてくれた。
エルハもサラの隣に腰を下ろし、二人で静かな海を見つめる。船舶も海獣の姿もなく、海は日の光を受けてキラキラと輝いている。
「……僕は、国を出てよかったんだろうな。出会いたい人にたくさん出会えたんだから」
「何か言った?」
エルハの呟きは、突風にさらわれて隣のサラには届かない。エルハは「いや、何でもない」と苦笑するに留めた。
「そろそろ戻ろうか」
「そうだね」
エルハは先に立ち上がり、サラに手をさしのべた。それに掴まり、サラが立ち上がる。
二人してリドアスへ戻るために歩き出そうとしたところ、大きな影が射した。三つ分だ。その中の一つの持ち主が、大きな体を揺すりながらエルハを指差す。
「……お前、エルハルト、か?」
「……今日は、捨てた名によく出会う日だな」
「お前が捨てても、捨てられぬものもある」
男は、両脇の細身の男たちに手で合図を送った。それを読み取り、彼らは腰や背中に持ち歩いていた得物を取り出した。切れ味鋭そうな、剣と鎌である。
「サラ、下がっていて」
「……うん。気をつけて」
サラが灯台の影に隠れたことを確かめ、エルハは自分の刀の鯉口を切った。
「名と所属を聞いておこうか」
「そんなもの、これから死ぬお前には要らなかろう」
「……冥土の土産ってやつかな?」
誰の、とはあえて口にしない。
リーダーらしき大柄の男は、肩に棍棒を担いでいる。棍棒の太さと大きさは、大人の男性一人分くらいはありそうだ。彼はそれを軽々と持ち、こちらを見下ろし軽んじる笑みを浮かべた。
「オレの名は、ゴウガ。あの世の役人に伝えろ」
「ゴウガ、か。誰の支配を受けている?」
「それは、言えん。依頼主との約定だ」
「……ノイリシアのお偉方の一人だろうな」
エルハはため息をつき、相手の出方を窺った。鞘から出した直後に勝負を決めたい。
ゴウガはエルハが怖じ気づいて動けないと勝手に考えたか、大きな動作で棍棒を振り下ろした。
───キンッ
エルハの鞘に刀が戻る。
「……?」
ゴウガは何が起きたか理解出来ず首を傾げたが、次の瞬間に轟くような悲鳴を上げた。
「ぐぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
「「兄貴?!」」
控えていた部下二人が、更なる悲鳴を上げる。ゴウガの棍棒を握っていた腕が肩から落ちたのだ。
「……まだ、治療すれば生き延びられる。そいつを連れて、さっさと消えろ。そして、
氷点下まで落ちたエルハの声色が、そう告げる。ゴウガの部下二人がコクコクと高速で頷いたかと思うと、脱兎のごとくその場を去った。
残ったのは、血溜まり。これも海の水がさらってくれるだろう。
ふぅ、と息をつく。刀を取り出すと、血はついていなかった。それでも持っていた布で刃を拭き取り、再び鞘に収める。
「ごめん、サラ。帰ろう」
「うん」
ゴウガたちに向けたのとは全く違う穏やかな笑みを浮かべたエルハに、サラはようやくほっとした顔をした。
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