第227話 突然の
昼前となると、その日の昼食や夕食用の食材を買い込む人々が動き出す。ここアラストの市場も、そんな場所の一つだ。
晶穂は果物屋と製菓用品店へ行くために、市場に足を踏み入れた。
「いらっしゃーい、今日も新鮮なのが入ってるよ!」
「そこのお嬢さん、こんなのはどうだい?」
「おや、旦那。今日は口煩い奥方はいないんですかい?」
そんな怒声とも取れる大声が、そこかしこで響いている。
晶穂は中央通りから一本入り、横道に逸れた。こちらに地元の人々が買いに来る果物専門店がある。
「おや、晶穂ちゃん」
「こんにちは、おじさん」
「こんにちは。今日は何をお求めかな?」
「えっとですね……」
決して人通りの多い道ではないのだが、この店は祖父母の代からここにあるという。現店主は三代目だとか。
店主は猫人の男性で、その黒い耳がぴくぴくと動く。恰幅が良く、いつも笑顔を絶やさない人だ。
子どもからはその体から、りんごおじさんと呼ばれているらしい。彼もそれを気に入ったのか、服の何処かにりんごの柄が入っていたり、りんごの形のピンバッジを付けていたりする。
今日は、りんごの刺繍がされたタオルを首に巻いていた。
晶穂は、日本の苺に似た果物を選んだ。シフォンケーキをいたく気に入った春直たちから、他のスイーツも食べてみたいとせがまれたのだ。
クリスマスの習慣がないソディールだが、冬を旬とするベリアという苺のような甘酸っぱい果物がある。それを買い、ケーキを作ろうと思い立ったのだ。
「これでまた何か作るのかい?」
「はい。ベリアのケーキを作ろうと思って」
「いいねぇ。ベリアはタルトやパイにしても美味しいよ。今度試してみな」
「餡と一緒に求肥で巻いても美味しいかもですね」
「ぎゅうひにあんか……。それはまだ食べたことがないな。良ければ試作でもいい、作ったら持ってきてくれないか?」
「勿論いいですよ!」
笑顔で了承する晶穂に袋に入ったたくさんのベリアを渡しながら、店主はニッと笑ってみせた。
「楽しみにしているよ」
ベリアの料金を支払い、晶穂はその店を出て表通りに戻った。
表は相変わらずの賑わいだ。その人波をぬいながら、晶穂は目指す製菓用品店を探した。
「あ、あった」
文月堂の向かいにあるその店は、様々なお菓子の材料やそれらのための道具が並んでいる。
晶穂は棚を一つ一つ見ながら、ケーキを作るためのボウルやハンドホイッパーを籠に入れた。一応以前から使っているものもあるのだが、そろそろ新しいものに買い替えていきたいと考えていたのだ。その良い機会である。
この店には既製品のお菓子も売っている。その中からアイシングクッキーを幾つか選び、それも購入した。桜の花や紅葉した椛、雪の結晶など美しいデザインで気に入ったのだ。
「うん、食べるの勿体ないかも。自分でも作ってみようかな」
そんな感想を抱きながら、晶穂はリドアスへと続く道を歩く。とはいえ、まだ市街地の中だ。
買い物用のトートバッグを肩にかけてウインドウショッピングをしながら歩いて行くと、同じように店先を見ている見知った人影を見付けた。
「エルハさん!」
「晶穂? 買い物中かい」
目を丸くするエルハに、晶穂が駆け寄った。
「はい、製菓用品とかを買いに。エルハさんは?」
「僕は……見回りを兼ねて気分転換だよ。もう帰るのかい?」
「はい。帰ってケーキを作ろうと思ってます」
たくさんのベリアを見せ、晶穂は笑みを浮かべた。「それはいいね」とエルハも笑い、一緒に帰ることとなった。
「……じゃあ、クリスマスケーキを?」
「はい。こっちにはクリスマスみたいなイベントはないと聞きましたけど、エルハさんはご存知なんですね」
「まあ、日本での生活も長いからね」
たわいもない話を交わしながら、いつしか話題はエルハとサラの出逢いのことへと移っていた。
「そういえば、わたしがこっちに来た時には、既に二人は恋人同士でしたよね。いつ頃そういう関係になったんですか?」
「おや、自分たちがそうなったら、他の人のことも気になってきた?」
「もう、そういう意味じゃないですよ」
かっと頬を染めて眉尻を上げた晶穂に、笑いながらエルハが「悪かったよ」と謝った。
「そうだな……。僕が銀の華に入ったのは、五年くらい前のことなんだ。サラと出逢ったのもその頃。彼女はまだここに所属はせず、時々サディアたちと喋りに来ていたんだ」
サラは今とそれ程変わらず、人との距離が近かった。すぐに人の懐に入り込み、心の触れてくる。それは彼女の意図したことではないのだろうが、エルハにはそれが眩しく映った。
「まだ最初の頃は、団長たちとも事務連絡をするくらいの関係性しかなかった。所属を持たなかった僕を銀の華に紹介した人は、ユーギのお父さんだけどね」
「テッカさんとは知り合いだったんですね」
驚く晶穂に、エルハは頷いた。
「あの人に見つからなければ、僕はここにはいないから。……さて、話が逸れたね。サラが新参者の僕に興味を持って絡んでくるようになったことがそもそものきっかけだけど……え?」
「エルハさん?」
ぴたり、とエルハの足が止まる。彼の隣を歩いていた晶穂は、エルハの目が信じられないものを見たように見開かれるのを見た。いつも冷静で、人をからかうのさえ忘れない彼には珍しい反応だ。
「どうし、て」
「一体何が……」
エルハの視線の先を見て、晶穂は首を傾げた。
道にはそれほど多くの人はいない。見えるのは、店のスタッフに何かを尋ねる老紳士の姿。そして、彼に従う青年二人。あとは特に目立つ人はいない。
「……晶穂、一度戻っても……」
戻ってもいいかな。そうエルハが口にする前に、老紳士がこちらに目を向けた。更に手にしていた紙とエルハを見比べる。
これ以上もないほどに目を開き、彼は青年二人に何かを言った。彼らは頷き、こちらへと歩いて来る。
「エルハさん……」
「……」
晶穂は思わずエルハの顔を不安げに見上げた。エルハの額には汗がにじんでいる。冷汗のように見えた。
「ごめん、晶穂。ちょっと巻き込みそうだ」
そんな呟きが晶穂の耳朶に届いた直後、青年たちが二人の前にたどり着く。
彼らは目を合わせると、その場に片膝をついた。二人の行動に目を瞬かせる晶穂とは反対に、エルハは静かな表情で彼らの主たる紳士を見つめていた。
「……ようやく、見付けましたぞ」
「僕は、会いたくなかったよ」
嫌なほど張り詰めた糸が、二人の間に見えた気がした。
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