第220話 手を伸ばして
―――パキン
鏡が割れるような音がして、最後から二番目の扉が消失した。それに気付いたのは、涙型の石を持つジェイスだった。その裏付けを取るため、自分の部屋で古来種のゴーダに連絡を取る。
水鏡の向こうでジェイスに応じたゴーダはにこりと微笑んだ。
「ああ、確かに消えましたよ。そして、こちらの眠り病も消えました」
「そうか。わかった、ありがとう。……ところで、ツユのその後は?」
ツユは、もともと体を蝕む病を持っていたのに加え、ダクトによって更に衰弱が進んでしまった。晶穂の力で病の進行を遅らせることは出来たが、それもいつまでもつかわからない。晶穂が日本に残るかもしれないという今は、特に心配だ。
ジェイスがそう言うと、ゴーダはくすくすと笑い始めた。
「何がおかしいんだい?」
「おかしいでしょう? かつての敵のことを、そこまで気にかけてくれるんですから。よくそんなにのほほんとしていて騙されませんでしたね?」
「そういう
ジェイスはゴーダとの通話を切った。
そして、帰宅したらしい弟分に声をかける。
「お帰り、リン。浮かない顔をしているけど、どうした?」
「……ジェイスさん」
胸元を力いっぱい握り締めているため、その右手の指は白くなっている。そして泣きそうに歪んだリンの顔を見て、ジェイスは椅子に座るよう促した。
「リンがそんな顔をするなんて珍しいね。……晶穂と喧嘩でもしたのかい?」
「喧嘩ならまだよかった。俺が一方的に……」
リンは、晶穂に言い放ってしまったこと全てをジェイスに打ち明けた。自分が思ってもいないことを、和香子の言葉を気にして突き付けてしまった。その弱さが嫌になったことを。
それを静かに聞いていたジェイスは、ふうっとため息をついた。
「じゃあ、リンはどうするんだい? このまま晶穂と離れ離れになったとして、後悔はしない?」
「……するに、決まってますよ。あいつを傷つけたままなんて、耐えられない」
「……じゃあ、すべきことは一つだね」
リンを椅子から立ち上がらせ、ジェイスはその背中をはたいた。パンッといういい音がした。
「痛っ」
「さっき、一つの扉が消えた。最後の一つは、リドアスの扉だ。……晶穂は後一時間くらいしたらリドアスに一度戻ると言っていたよ。その時が、謝る最後の機会だ」
「―――はい」
リンは迷いを振り払い、しっかりと頷いた。
今日の講義を全て終え、晶穂はソディールに戻った。その前に教授につかまってしまったため、和香子に返答をする午後六時半まで三十分もない。
晶穂は急いで部屋に戻り、大学で使うものをまとめて片付けた。いつも使っている鞄の中身を出す。
「晶穂さん、お帰りなさい」
「あ、春直。ただいま」
部屋の戸が開いていたらしく、春直がひょこっと顔を出す。そのまま部屋に入って来て、晶穂の手元を覗いた。
「何を書いてるんですか?」
「うん……。叔母さんとおじさんへの手紙。わたしの気持ちを全部書こうと思って」
「手紙で? 会うんですよね、今から」
「会うよ? でもきっと、全部をちゃんと伝えることは出来ないから。わたし、そういうの下手だからね」
シャーペンを動かしながら、晶穂は苦笑した。彼女の書く文字は日本語だ。それが全てを理解出来ているわけではないが、春直は唯文と一緒に勉強することが多いために読める文字も多い。
「伝わると良いですね、晶穂さんの気持ち」
「うん、ありがとね」
春直がいなくなってからも晶穂は手を動かし続け、それが書き終わったのは午後六時二十分だった。
玄関ホールへと向かうと、そこにはジェイスたちが勢ぞろいしていた。克臣と真希、明人もその場にいる。
目を丸くする晶穂の前に、克臣とジェイスに背中を押されたリンが進み出る。
「ど、どうしたの? リン……」
昼間のリンの言葉を思い出し、晶穂は少し目を背けた。それに少し傷ついた顔をしたリンだったが、そうさせているのは自分だと思い直した。
「晶穂に……謝らなきゃいけない」
「ふぇ?」
顔を上げた晶穂に、リンは頭を下げた。
「ごめん。……思いもしてないことを口走って、傷つけた。叔母さんの言葉を気にするあまり、怖気付いてしまったんだ。……本当は」
拳を握り締め、リンは晶穂を真正面から見つめる。めいっぱいに見開かれた晶穂の瞳に、リンが映り込む。
「本当は、ソディールで一緒に生きて欲しい。俺の傍で、みんなと一緒にいてほしい。……でも、晶穂には笑顔でいて欲しい。もしもお前が叔母さんたちと暮らす方が幸せなら、それを尊重する。だから、無理するな」
「リン……わたしは……」
その時、十八時半を告げる晶穂のスマートフォンのアラームが鳴る。その大きな音に追い立てられるようにして、晶穂は扉の方を向いた。リンの片手がズボンのポケットに入れられている。それへ疑問を言う時間はなかった。
「リン、わたし決めたから。……行ってくるね」
「ああ」
扉を日本につなげ、そこに停まっていた車に駆け寄る。車が停車しているのは、空き家の真ん前だ。中には和香子がいて、突然現れた晶穂に驚いた。
「今から大学の前に行こうと思ってたのよ。びっくりしたわ、晶穂」
「ごめんなさい、和香子さん」
和香子は車内から外に出ると、晶穂と向き合った。
「……それで、答えは出たの?」
「はい。……ちゃんと話せるかわからないので、手紙を書いてきました」
そう言って晶穂が差し出した封筒を受け取り、和香子はその封を切る。中に入っていた便箋を開き、目を通す。
そこには和香子と心一郎に対する、晶穂が自分をこれまで探してくれたことへの感謝と、一晩共に過ごしてくれたことへの思いを綴っていた。
手紙を読み進め、和香子の手が二枚目を取る。そこに書かれていた言葉に、彼女の目が止まった。
「……『一緒に行くことは出来ません』ですって?」
「はい。わたしは、自分の生きる場所を、大切な人たちを見付けました。だから、そこを離れたくはないんです」
「そんなこと……ッ」
空き家の戸が輝き、ひとりでに開け放たれる。その眩しさに目を閉じていた晶穂と和香子は、ゆっくりと目を開けた。そして、その光景を疑った。
「な、なんなの!? あれは」
「―――ソディール?」
戸の向こうに、リドアスが見えた。そして、そこに立つリンとレオラたちの姿も。
晶穂は和香子の元を離れ、戸の前に立った。
「ごめんなさい、和香子さん。わたしの生きたい場所は、この世界ではないんです」
和香子が目を瞬かせている。扉が全て消えてしまえば、彼女のソディールに関する記憶はなくなる。だから、話してしまおうと晶穂は割り切った。
「この扉の向こうの世界で、わたしは生きていくと決めました。……和香子さん、心一郎さんといつまでも仲良くしてください。きっと、わたしの両親もそれを望んでます」
「……晶穂」
絶句する和香子に頭を下げ、晶穂はソディールの方に体を向けた。空は、夕闇に染まっている。
扉の向こうで、レオラの声が聞こえた。
「急げ、神子。扉が消えかかってる!」
「はいっ」
晶穂が駆け出そうとした時、その腕を捉えた者がいた。晶穂が振り向くと、そこには形相の変わった和香子がいた。
「わ、和香子さん……?」
「許さないわ。十年以上も探し続けた姪が、私たちを拒否する? そんなこと、認められるわけないじゃない。……それに、あなた!」
扉の向こうのリンを睨みつけ、和香子が吼える。
「言ったわよね? 晶穂と別れてって。それが出来ないなら、わたしたちと暮らすように言いなさいって!」
「和香子さん……」
「そう、でしたね」
絶句する晶穂は、リンの和香子の言葉を肯定する言葉を聞いて彼の行動の理由を知った。
でも、とリンは笑みを浮かべる。
「俺は、こいつのことを信じています。例え二度と会えなくても、生きる世界が違ったとしても、護ってみせます。晶穂が俺たちと生きてくれると決めたのなら猶のこと、彼女をもう、悲しませはしません」
「リン……」
和香子の腕から逃げられずにいる晶穂に、リンが手を伸ばす。
「来い、晶穂!」
「リン!」
精一杯に手を伸ばすが、その指すらも交わらない。晶穂よりも和香子の必死の力の方が勝り、少しずつ車へ向かって後退しているのだ。
「一緒に来なさい、晶穂。それがあなたのためなんだから!」
「離してくださいッ。リン、リン!」
「くそっ……」
少しずつ、扉が薄くなっていく。今や上部が消え、後は下半分を残すのみだ。
リンが扉から出そうになるのを止めたのは、レオラだった。
「それ以上出るな、おまけ。そのまま狭間に身を置けば、お前は時空の狭間で死んでも過ごすことになるぞ」
「くっ……」
怖気付きながらも、リンは精一杯手を伸ばす。それでも、晶穂には届かない。
「リンッ」
「ちょ、暴れないでよ!」
無茶苦茶に手と足を動かし、晶穂は和香子の拘束が緩む一瞬を見付けた。その隙を突き、扉に向かって全力で駆ける。
後一歩で扉をくぐれる。その時だった。
―――パキンッ
「え……」
晶穂が立ち止まる。目の前にあるのは、空き家の何の変哲もない戸だった。
彼女の後ろでは、咳き込む和香子が乱れた呼吸を整えている。
「嘘、だよね……?」
よろよろと戸に近付き、その板に触れてぺたんと座り込んだ。
何処にもソディールの痕跡はない。必死に探そうとも、手を伸ばしてくれたリンはいない。
「いや……いやぁ……」
ぽたり。晶穂の両目から、一粒の雫が流れ落ちた。地面を握り締めるその白い手が濡れる。
「あ……あぁ……」
一つ、また一つと零れ落ちる。
晶穂の頭の中に、リンやジェイス、克臣、ユキ、ユーギ、サラ、エルハ、唯文、春直、真希、明人、そしてたくさんの仲間たちの顔が浮かんでは消えていく。
自分を責めた。どうしてもっと早く、自分の本当の気持ちをはっきりと示さなかったのか。どうして、最初の決意を揺らがせてしまったのか。
どれだけ責めても、何も戻って来ない。胸が痛い。刃で切り刻まれるように。
「いや……リン。リン……やだよ……ぅあ……」
目の前が霞む。クリアだった視界は、もう役に立たない程に歪んでいた。
最後に見たのは、大好きな人の必死にこちらへ手を伸ばす姿だ。
「あぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああぁあああぁあぁああっ―――――!」
晶穂の慟哭は、ただ夜の空へと消えていった。
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