第219話 小さなすれ違い

 真夜中、晶穂はふと目を覚ました。スマートフォンを確認すると、現在午前一時である。朝六時に目覚ましをかけているため、流石に早過ぎる。

「……?」

 真っ暗な部屋に一筋の光が見えた。その先をたどると、リビングに続いていた。這うようにして扉に近付き、耳を寄せる。どうやら和香子と心一郎が話をしているようだ。

「……して、恋人にそんなこと……」

「って……じゃない。だから……」

 心一郎の声が、痛みを伴っている風に聞こえる。対して和香子は強気に喋っているようだ。

 何とはなしに、自分に関わることなのだろうと感じた。しかし覚醒しているわけでもない晶穂は、そこから動こうとはしなかった。

 やがてリビングの照明が消され、二人分の足音が遠のく。晶穂は再びずりずりと移動して、布団に寝転がった。

(わたし、どうしたらいい……?)

 答えの出ない命題が、晶穂の中をぐるぐると回り続けていた。


 明朝、昨夜の豪雨は止んでいた。晶穂は朝食をごちそうになり、早めのお昼を車の中で食べればいいと言われておにぎりなどが入ったお弁当を手渡された。

 そして心一郎に挨拶をし、和香子の車で大学に向かった。今日必要なテキストは、後でリドアスに戻って取ってくればいい。

 流石に正門前は邪魔になるため、人通りの少ない東門に止めてもらう。

 和香子の自宅から大学まで、ほとんど会話はなかった。晶穂に考えさせる時間を取ったのかもしれない。それとも、和香子が話すのを自粛したのか。

 同居するかどうか、養子縁組をするかどうかは、今日の夜に結論を連絡することで決まった。これは晶穂の意志だ。そうしなければ、永遠に返答など出来なくなる。それに対し、和香子は仕事を終えた後に返答を聞きに来ると言ってきかなかった。

 だから、午後六時半がタイムリミットとなる。

「着いたわよ、晶穂」

「ありがとうございます、和香子さん」

 和香子にお礼を言い、晶穂は車を降りた。運転席側にまわり、和香子と目を合わせる。

「一晩泊めて頂き、ありがとうございました。楽しかったです」

「私もよ。……よい返事を期待しているわね」

「……はい」

 名残惜しげに晶穂と握手を交わし、和香子は仕事に出かけて行った。彼女を見送った晶穂は、くるりと体の向きを変えて大学構内へと入って行く。

 最初の講義は、日本文学概論だ。幸いテキストはなく、その場でプリントを配るタイプの講義である。

「……あっ」

 敷地内を歩く学生は多い。昼前であることもあってか、休み時間よりは少ないが。それでも広く芝生を植えたスペースを持つ星丘大学は、近隣の住民の憩いの場ともなっている。今も、ベンチで談笑している子ども連れのお母さんたちが見えた。

 その更に先、今から晶穂が向かう八号館に向かって歩く青年がいた。昨日から顔をまともに合わせていない、氷山リンである。

 晶穂は周りを確認した。どうやら早めに講義室へ向かおうという学生は、晶穂とリンくらいのものらしい。意を決して、晶穂は歩くスピードを速めた。

 歩きが速足になり、いつの間にか駆け出している。

「リ……氷山先輩!」

「あ……三咲!?」

 半ば背中から抱きつきそうな勢いで、晶穂はリンの背に呼び掛けた。リンも晶穂に気付いて目を丸くする。

「……戻って、きてたのか」

「も、勿論、です。だって、講義、あります、から」

 晶穂の言葉は息切れもあって流暢ではない。はぁはぁと荒い息を整え、晶穂はほっとした表情をリンに向けた。

「よかった……。会えて」

「……それは、もう会えないということか?」

「え?」

 一瞬リンが見せた寂しげな表情。その意味を問い直そうとした晶穂に、リンはそれをなかったこととして拒否した。

「……何でもない。お前も講義あるんだろ。行くぞ」

「あ、はいっ」

 リンの背を追い、晶穂は歩幅を大きくした。

 日本文学概論の講義が終わり、次まで十分程の空き時間がある。晶穂はその間に次に必要なテキストを取りに帰るため、一度大学裏の路地からリドアスへと戻った。

「あ、晶穂!」

「サラ、ただいま」

 晶穂がリドアスの戸を開けると、真っ先にその姿を見つけたサラが駆け寄って来た。そのハグを受け止め、晶穂は微笑んだ。

「テキスト取りに帰って来たんだ。すぐ大学に戻るよ」

「……帰って来てくれる?」

「……」

 サラの問う意味を理解し、晶穂は口をつぐんだ。その答えを、自分はまだ出せていない。

 晶穂が目を彷徨わせると、サラがはっとした表情で体を離した。

「ごめん、困らせるようなこと言って」

「う、ううん。いいの」

 まだ決めていない自分が悪いのだから。そう言って笑うと、サラが痛そうな顔をした。

「サラ……?」

「そんな、悲しそうな顔しないでよ」

「そんな顔してな……っ」

 してない。そう晶穂が言い切る前に、サラが再び抱きついてきた。きゅっと細い腕で抱き締められ、晶穂は驚く。

「サラってば」

「……あたしは、晶穂が何処にいても友だちだから。一番の親友なんだから!」

「!」

 サラの言葉に、晶穂は言葉を失った。

「だから、晶穂は自分の好きな方を選べばいいんだよ? どちらだって、あたしたちは晶穂の味方だから」

「……うん、ありがと」

 サラの声が涙に濡れている。そう思ったが、晶穂の声も少ししゃくりあげるような震え声だった。

 二人はわずかな間抱擁を交わし、照れくさくなって離れた。涙でぐちゃぐちゃになりかけた顔で、サラと晶穂は笑い合う。

「ほら、テキスト持って戻りなよ!」

「あ、そうだった」

 本来の目的を忘れかけていた自分に苦笑し、晶穂はサラに手を振った。

 再び大学に戻ったのは、講義が始まる二分前だ。


 今日最後の講義を受け終え、晶穂は一人でカフェテリアにいた。隅の席に陣取り、紅茶をお供に選ぶ。

 それからまっさらでページ数の少なめなノートを取り出した。ここに、自分のこんがらがった思考を吐き出していく。

「……まず、日本にいるメリットとデメリット」

 周りの喧騒はもう聞こえない。シャーペンを走らせる音が聞こえる。

 両親を知る近親者と暮らせること、大学に通い続けられること、学園の先生や学校の友人たちといつもの通り会えることがメリットとして挙げられるだろう。

 反対にデメリットはと言えば、ソディールの仲間たちにもう会えない可能性が極めて高いということか。

 同様にソディールにいるメリットとデメリットを書いていくが、これは前に書いたものの逆を書けばいい。

 書き終わって見れば、今まで思っていたことを書いただけだ。目新しい、決め手には欠ける。紅茶をストローで吸い込む。ストレートのそれは、甘過ぎずに晶穂にとっては飲みやすいのだ。

「晶穂、お前何してんだ?」

「あ、リン……。ちょっと考え事」

大方おおかた、どちらを選べばいいのかってことか?」

「うん……」

 しゅんと俯いてシャーペンをいじる晶穂に、リンは苦笑するしかない。

 他の学生たちは自分たちの会話に夢中だ。こちらを気にしている者などいない。だから、呼び方ももとにままで話を続けた。

「お前、叔母さんと過ごしてみてどうだったんだ?」

「……娘として接してくれていて、とっても嬉しかった。両親がいる生活ってこんな感じなのかなって想像出来たよ」

「そうか」

 晶穂の顔を見れば、穏やかに楽しく過ごすことが出来たのだとわかる。しかしあの脅迫を自分にしてきた和香子が、ただ彼女を娘のように扱ったのではないのではないかと疑ってしまう。そんな自分が嫌になる、とリンはため息をつきたい気分だった。

「あの……リン?」

「あ、ああ。すまない」

 ちょっと考え事だ。そう言ったものの、晶穂の表情は晴れない。

(……お前は、俺のことを気にしている暇はないんじゃないのか?)

 少しイライラするのは、きっと自分にも気持ちの余裕がないからだ。晶穂がどっちつかずであることが、腹立たしいのではない。でも、どうして止まらないんだ。

 リンは片隅の理性のストッパーが懸命に仕事をしようとしていることは、わかっていた。

「……晶穂。もうお前、こっちに残れ」

 どうしても、リンの中で和香子の言葉がこだまする。

 リンの言葉に、晶穂が凍り付く。

「なんで……」

「なんでも何も、その方がお前は幸せになれる。敵と戦って傷つくこともないし、命の危険を感じながら過ごす必要もない。そして魔力を使う必要もないんだから」

(ああ、そんなことを言いたいんじゃない。晶穂を守りたいだけなのに……)

 冷たく細められる瞳が、晶穂を捉える。大きく見開かれた彼女の瞳が揺れている。リンは胸元を掴み、その奥で慟哭する痛みに気付かないふりをして、その場を去った。


「あれ、リンくんじゃない!」

「……」

 カフェテリアを出たリンが大学構内を歩いていると、向こうから化粧の濃い二人の女子大生が駆け寄って来た。楽しげに話しかけられるが、リンにはそれにいつも通り冷静に応じる余裕はない。

「ねえ、いつも一緒の子はどうしたの?」

「あ、わかった! ようやく別れたんでしょ? あんな子、捨てて正解だよ」

 きゃいきゃいと好き勝手言う女子たちに痺れを切らし、リンは呟いた。

「……てない」

「え?」

「リンくん、何て……?」

 リンの冷たい瞳に睨みつけられ、二人はびくりと体を震わせる。それでも性懲りもなく問われ、リンは少し語気を強めた。

「俺は、あいつを捨ててなんかない。捨てたいなんて、思ったことは一度もない!」

 そう言い切ると唖然とする二人を置き去りにし、大学構内から姿を消した。




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