第218話 迷いの夜

 晶穂は客間に案内され、鞄を部屋の隅に置いた。そこは薄水色のカーテンが窓につけられた白を基調とした部屋だ。小さな机と椅子が置かれ、ふすまを開くと布団が仕舞ってある。

 和香子と共に布団を敷き、もう一度リビングに戻った。

 夫婦と共にソファーに座った時、和香子が晶穂に尋ねた。

「晶穂、私たちと暮らすこと考えてくれた?」

「それはっ……」

 言葉に詰まってしまう晶穂を援護したのは、心一郎だった。

「和香子、まだ決めさせるのは早いだろう」

 明日の朝でもいいんじゃないか? そう言った心一郎に、和香子は「そうかもしれないけど」と頬を膨らませる。

「早く、この子に娘になってほしくて……。ごめんなさい。また、あなたを困らせるわね、晶穂」

「いえ……」

 娘になってほしい。そう言ってもらえることは、晶穂にとっては喜ばしいことだ。家族として接したいということなのだから。きっと、この夫婦となら仲良く生きていけるだろう。

 それでもちらつくのは、ソディールの仲間たちのことだ。彼らが今何をしているのか、とても気になる。

 しかし今、スマートフォンを異世界につなげることは出来ない。二十六木夫婦はソディールの存在を知らないのだから。

 晶穂が顔を俯かせると、和香子が肩を抱き締めてきた。ぽんぽんと優しく撫でてくれる。

「もう寝ましょうか。明日も学校はあるでしょう? 明日は少し向こうに戻らないといけない用事もあるし、送っていくわ」

「はい。おやすみなさい」

「おやすみ、晶穂ちゃん」

 幸い、明日の講義は昼からの二コマだけだ。それ以降は、扉が閉じるまでのタイムレースのようなもの。リンは既に大学に届け出をしたと聞いた。晶穂自身が、自分が生きる世界を決断しなければならない。

 客間で布団の上に倒れ込み、晶穂は目を閉じた。リドアスにて暮らし始めてからは感じなかった、静かな夜の空気。閑静な住宅街の一角であるこのマンションは、静かな環境もポイントであるのだろう。

「おやすみ、みんな……」

 ソディールの仲間たちのことを思い浮かべれば、寂しさは紛らわせられる。晶穂は小さく呟くと、眠りへと誘われていった。

 外ではまだ、バケツをひっくり返したような雨が降り続いている。


 リンは自室のベッドに仰向けになり、ずっとスマートフォンの画面を気にしていた。晶穂から何らかのメッセージが届くのではないかと思ったのだ。

 しかし、和香子の言葉がリンの心に針を刺す。

 ―――それなら、あの子に言ってくれないかしら。『叔母さんと暮らす方が、晶穂は幸せになれる』って。

「くそっ」

 ばふん、とベッドから枕が飛ぶ。リンの拳が敷布団をへこませたのだ。それでも飽き足らず、リンは枕を掴んで壁に向かって投げつけた。

 パシッ

「危ないな、リン」

「……克臣、さん」

「暴れてるのかい、リン」

「ジェイスさんも……」

 枕を受け止めた克臣と、その彼の後ろから顔を出したジェイス。何故こんな夜中に二人が自分の部屋にいるのか。

「二人共、どうし……」

「ってかジェイス、お前俺を盾にしただろ。部屋に入った途端に押しやがって」

「まあ、ね。でも克臣なら枕くらい受け切れると思ったから」

 リンの言葉を遮るようにして、兄貴分二人が言い合う。

 ぽかんと成り行きを見守っていたリンの頭に、克臣とジェイスの手が乗る。

「うわぁ?」

 抗議の声を上げる間もなく、ぐりぐりとかき撫でられる。髪がくしゃくしゃになり、流石に文句を言いたくなった。

「ちょっと……!」

「泣きそうな顔だったぞ、リン」

「……え?」

 克臣に言われ、リンは言葉を失った。泣きそう、とはどういうことだ。

 その時になって初めて、目頭が熱いことに気が付いた。不用意に瞬きをすれば、零れ落ちてしまいそうだ。

 リンは慌てて手の甲で涙を拭く。ベッドの上に胡坐をかき、二人に苦笑してみせた。

「すみません。何でか、気が付きませんでした」

「それほどまでに、お前を追い詰めたのは誰だ?」

 間髪を入れず、克臣がリンに尋ねる。その気迫に驚いたリンが目を瞬かせると、ジェイスが困ったような顔で助け船を出した。

「リン、昨日から何か思い詰めてるみたいだから。克臣はそれが心配なんだよ。勿論、わたしもね」

「ジェイスさん、克臣さん……。すみません、俺」

 返された枕を掴み、リンは二人に頭を下げる。しかし克臣がその頭を掴んで上向かせた。リンのこめかみを痛みが襲う。痛いと抗議したところで受け入れられない。

「俺が聞きたいのはそれじゃない。ここ数日、お前を悩ませていることだ」

「そんなの、わかりきってるじゃないですかっ。……晶穂が日本を選んだらと思ったら……! それに、あいつの叔母って人が」

「叔母って人に、脅されたのか? 例えば、リンがいたら首を縦に振らないから別れてくれとか、別れないなら自分たちと暮らすよう説得してくれだとか」

「……ジェイスさん、エスパーですか?」

「何でそうなる」

 頭を抱えたリンにジェイスが、「それくらいのことはお前を見ていればわかる」と苦笑した。克臣もジェイスの隣で頷いている。

 リンは急に恥ずかしくなって顔を赤くした。一人の女の子に対してこれだけ右往左往している姿は、出来れば誰にも見られたくなかった。

 そんなリンの頭に、克臣が毛布をかける。

「―――ま、全ては明日だ。リンと晶穂がお互いを思い合っているのは、俺たちが知ってる。そのために傷つくこともな。……お前が晶穂の叔母から何を言われたかは聞かんが、明日に備えてもう寝ろ」

「それがいい。きっと、晶穂も悩んでいるのだろうからね」

「……はい」

 それからコトリと枕元に何かを置かれる。見れば、水がコップ一杯あった。

「これは、安眠するための魔法の薬だ。水は全て飲んで、明日に備えなさい」

 ジェイスはそう言って微笑むと、毛布から顔を出したリンの頭を撫でた。

「……俺、子どもじゃないですよ?」

「わたしたちにとっては、可愛い弟分だから」

「違いねぇや」

 兄貴分二人が部屋から出て行くと、リンはジェイスが置いて行ったコップを手に取り、一気にあおった。

 するとすぐに睡魔が襲って来る。

「あの人、こんなもの何処で……」

 手に入れてくるんだろう。その言葉を言い切る間もなく、リンはベッドに倒れ込んだ。

 少し小降りになっていた雨は、また勢いを増してきた。

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