第217話 二十六木家の食卓

 レオラの指が、ソディールの地図の上を滑る。そこに示された幾つもの黒いバツの印が示すのは、扉の消失。

 残るは、後二つ。一つは大陸の北に位置し、もう一つはリドアスの扉だ。

「全てが決するのは、明日。夜の帳が下りる時……。さて」

 創造主たる神は美しい銀の花畑の中に佇み、もうひとつの世界を思った。

「約束を果しに行こうか」




 和香子の自宅は、晶穂たちの大学がある県から高速道路を使って二時間ほど走った先にある。マンションの五階の隅の部屋だ。日当たりが良く、洗濯物がよく乾くのだとか。

けれど、今日はそのメリットが活かせない。豪雨なのだ。雷も聞こえる。

「少し座って待っていて」

「あ、お気遣いなく」

 和香子が慌ただしく部屋に入って、簡単に荷物を片付け始める。数日留守にしていて、夫の良いように汚されたと笑っている。晶穂は椅子に座っているといいと言われたが、何となく書類などを整頓していた。

 リビングのテーブルの上には飲み終わったビールの缶が数個、それから新聞紙が広げられたままだ。それらも片付けて、二人はようやく息をついた。

「ごめんなさいね、晶穂。お客様なのに手伝ってもらっちゃって」

「いえ、大丈夫ですよ。こういうことには慣れてますから」

「ふふっ。娘がいるってこういう感じなのかしらね」

「そう、かもしれませんね」

 楽しげに鼻歌を歌いながらスーパーで買って来た食材を冷蔵庫に入れる和香子の姿を見ながら、晶穂はあいまいに笑うしか出来なかった。

 夕食は、鮭のムニエルを中心とした洋風の料理が並んだ。そこに白米が混ざっているのが、やはり日本の食卓だと思わせる。

 その頃になって、和香子の夫・心一郎しんいちろうが会社から帰って来た。最寄り駅から雨に降られたと愚痴っている。和香子にタオルを手渡されていた。

 荷物を置き、心一郎が居間に入ってきた。白髪交じりの髪を整え、思慮深げな瞳が眼鏡の奥でこちらを見ている。晶穂は緊張しつつも自己紹介をした。それに対し、心一郎は笑みで応える。

「ご丁寧にありがとう。僕は二十六木心一郎です。招きに応じてくれてありがとう、晶穂ちゃん」

 どうせ、和香子が無理を言ったんだろう。と心一郎は苦笑した。その時、和香子はキッチンに立ってその場にはいなかったため、夫の言葉は聞こえていない。

 料理を前にして、三人が「いただきます」と手を合わせた。それぞれが思い思いに箸を進める。テレビでは、夜のニュース番組をやっていた。

「しかし、まさかお前が本当に陽大さんの娘を探し出すなんて思わなかったよ」

 ムニエルを箸で綺麗に食べながら、心一郎が言う。

「だって、兄さんの忘れ形見ですもの。何処かで生きていてくれればいいと、ずっと願っていましたから」

「その熱量には脱帽ものだ」

 苦笑気味の心一郎が、隣の座る晶穂を視界に映した。

「晶穂ちゃん、美味しいかい?」

「はい。とっても」

「和香子は料理上手だからね。まずいものはほとんど出て来たことがないんだ」

「心一郎さん、なんですか?」

 少し眉を顰める和香子に、心一郎は「そうだよ」と笑う。

「最初に作ってくれた料理、あれは塩と砂糖を間違えて凄い味だったから。それ以降はないよ」

「そ、それはもう忘れて!」

 顔を真っ赤にする和香子と、それを楽しげに見る心一郎。とても仲睦まじい夫婦のようだ。

 晶穂は、心一郎と和香子の質問に笑顔で答えることが出来た。施設での思い出や大学で何を学んでいるのかなど、晶穂のことを知ろうとしてくれているのがよくわかる。

 特に水の樹学園での年下の子どもたちとのエピソードは、二人の笑いを誘った。

「その時、思いっきり背中を押されて。気付いたらプールに尻もちをついてました」

「ふふっ、やんちゃな子もいるのねぇ」

「それだけ元気なら、きっと丈夫な子に育つな。でもその時は焦ったんだろうね」

「はい。大声で泣きながら、ごめんなさいって謝られました」

 今思い返すと学園での暮らしは、楽しいことばかりだった。厳しくも優しい先生や、無邪気な年下の子たちに囲まれていた。

 やがて食事は終わり、和香子は後片付けを始めた。晶穂は手伝いを申し出、彼女が洗う食器を拭いては食器棚に仕舞う作業をした。

 それから最初に汗を流してくるよう言われ、浴室を借りる。寝間着は和香子が用意してくれた。自宅に帰る時間はなかったため、晶穂は大学で必要なもの以外は持っていないのだ。

 湯船につかりながら、晶穂はあっという間の二日間を振り返る。

「……まさか、親戚と会えて、その人のお家に泊まることになるなんてな」

 明日が終わる時、それは二つの世界の分かれ目。それまでにこの気持ちに答えを出さなければ。

 用意されていた寝間着は、薄桃色のパジャマだった。それを身に着け、タオルで軽く神の水分を飛ばす。自分の髪から普段はしないシャンプーの香りがするのは新鮮だ。

「お風呂、ありがとうございました」

「お、あがったのかい。じゃあ、僕も入らせてもらおうかな」

 ひょっこり顔を出した晶穂と交代で、心一郎が風呂場へと消えていく。和香子は片づけを終えたのか、のんびりとリビングのソファーに座ってテレビを見ていた。

「お帰りなさい、晶穂」

「お風呂、きもちよかったです」

 和香子から数十センチ離れたところに座り、晶穂は彼女と同じテレビ画面を見つめる。二人の間には、穏やかな沈黙が流れた。

「……今日は、来てくれて嬉しかったわ」

 穏やかな笑みを向けられ、晶穂は目を丸くした後微笑んだ。

「わたしも、思いがけませんでしたが楽しく過ごさせて頂きました」

「……本当に、兄に似てるわね。采明さんにも」

 そっと晶穂の頬を撫で、和香子は懐かしそうに呟いた。

「そんなに、似てますか?」

「ええ。目元や唇、あとは雰囲気かしら。あなたを見ていると、二人がそこにいるような気さえするわ。あり得ないと、わかっているのだけど」

「和香子さん……」

「湿っぽくなってしまったわね。晶穂、あなた紅茶は好き? 美味しいものを見つけたから、昨日買ってみたの」

「あ、頂きます」

「わかったわ。少し待っていて」

 そう言うと、和香子はキッチンに再び立ち、紅茶を用意し始めた。紅茶の葉とポット、そして三つのカップをトレイに乗せる。沸かしたお湯と茶葉をポットに入れ、指定された時間待つ。無色透明だったお湯に色がついた。

 トポトポと注がれたカップを手にし、それを口に運ぶ。猫舌気味の晶穂は、少し息で冷ましてから一口飲んだ。

「……美味しいです」

「うん。あのお店は正解みたいね」

 満足げに呟く和香子と共に、晶穂はしばし紅茶を楽しんだ。そこに心一郎が加わったのは、それから十分程後のことだ。

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