第215話 拒否権のない依頼
扉が全て失われるまで、後二日。
いつものように大学で講義を受けて提出物を出したリンは、午後の講義の時間を潰すために校外に出ていた。
今までも時々大学構内の目から逃れるためであったり、エルハの店を訪ねる目的があったりして出掛けていた。しかし今は、残り少ない時間を使って目に焼き付けておきたいと思った。
エルハの店アレスの前へ行くと、閉店セールをしていた。
「閉店するんですか?」
無関係の一般人のふりをして、リンはスタッフらしき女性に話しかけた。彼女はしゃがんで品出しをしていたが、リンに話しかけられて慌てて立ち上がる。ボブヘアで前髪を、店の商品の向日葵のついたピンでとめている。彼女は一瞬リンの顔を見て頬を染めたが、我に返るのは早かった。
「そ、そうなんです。でも店長が変わるためなので、一か月程経ったらリニューアルオープンしますよ!」
確かに店頭のポスターにはその旨がきちんと書かれていた。どうやらエルハは、店の誰かに店長を引き継がせるらしい。
是非その時いらしてください、とリンに微笑んだ彼女は、奥にいるのであろう誰かに呼ばれて行ってしまった。声色からして、エルハだろう。
リンはちらりと店内を覗いた後、その場を離れた。
腕時計を見れば、次の講義までは三十分ほどある。大学までは徒歩五分圏内だ。まだ昼食も食べてはいなかったため、その辺りにあったチェーンの喫茶店に入る。
そこで豚カツのサンドイッチと紅茶を買い、席についた。
通りに面したカウンター席で、ぼおっと外を見ながらサンドイッチをほおばる。カップを手にして飲んでいるとふと、昨夜の晶穂との場面が脳内にフラッシュバックしてしまう。
「―――ッ」
危うく口の中から紅茶を吹き出すところだった。
自分の胸に飛び込んできた晶穂の熱と感触を思い出し、一人で赤面する。それから、彼女の涙を思って眉間にしわを寄せた。
「……あいつ、ちゃんとあの後眠れたかな」
「こんにちは」
「!!」
百面相していたリンは、後ろから聞き覚えのない声をかけられて勢いよく振り向いた。
「あなたは……?」
そこにいたのは、コーヒーの入った紙のカップを持った女性だった。紺のパンツスーツを着こなし、肩から黒いバッグをかけている。そこから覗いている書類を見る限り、営業職の人のようだ。どことなく、誰かに似ている気がする。
リンが警戒心を露わにして睨んでいることに対して、女性は特に気にしていないようだ。「隣、いいかしら」と許可を得てから、リンの隣の席に腰掛ける。
「まずは、初めまして。氷山リンくんよね? その藍色がかった黒髪と赤い瞳、聞いていた通りだわ」
「……その質問に答える前に、あなたの名を教えては頂けませんか?」
尚も警戒するリンに、女性は目を瞬かせて苦笑した。
「あら、失礼。私は、二十六木和香子。……あなたの彼女、晶穂の叔母です」
「あなた、が」
二十六木和香子。晶穂から名前と彼女との会話内容だけを聞いている女性。その女性が目の前にいる。それが意味することがわからず、リンの眉間に更にしわが寄る。
和香子はずずっとストローを吸い、通りの人波を見ながら話し始めた。
「ごめんなさいね、突然話しかけて。驚いたでしょ?」
「え、ええ」
「あなたのこと、悪いとは思ったんだけど調べさせてもらったの」
ちょっとした知り合いにね。そう微笑む和香子の表情に、リンはぞっとした。
特にここ数日で人につけられていると感じることはなかった。大抵の敵意や殺意に関しては敏感に反応出来る自信があるリンだが、調査されているという実感はない。だからこそ、それが恐ろしいと感じた。
「……それは、晶穂は知っているんですか?」
知っているはずがない。あの
案の定、和香子は首を横に振る。
「知らないわ。私が勝手にしたことだから。……でも、調査依頼をしてよかったと思ってる」
和香子は飲んでいたカップを机に置き、リンを真っ直ぐに見た。その厳しい目に、リンは戸惑いを覚える。
「何か……」
「単刀直入に言うわね。晶穂と、別れてくれないかしら?」
「なっ」
ガタリと椅子が音をたてる。動揺のあまりにリンが鳴らした音だ。
リンの中で、何かが煮え滾り始めた。何故自分たち二人のことを何も知らない他者にそんなことを言われなければならないのか、わからない。
努めて冷静を装い、リンは真っ直ぐ和香子を見返した。椅子を鳴らした時点で、和香子にはリンの戸惑いはバレているだろうが。
「何故、とお尋ねしてもいいですか?」
「……私が、晶穂を引き取りたいと願っていることは?」
「知っています」
「そう。……実は今は仕事の都合でこっちに出張して来てるんだけど、私の家も会社も他県にあるの」
和香子が告げた名は、確かに隣県とも言えない遠い県名だった。
「出張のお蔭で晶穂に再会することも出来たけど、あなたという存在も知ってしまった。あなたがいれば、晶穂は首を縦には振らないでしょう。……大好きなのだと、顔を真っ赤にして話してくれたから」
「……それは、俺だって同じです」
リンは晶穂が自分のことをそんな風に言ってくれたことが嬉しかったが、それにかまけてはいられない。和香子の言いたいことが見えて来て、舌打ちしたくなる。
「それにあなた……住んでいるという場所も、店舗であって住居ではないと報告書にあったわ」
「……そこまで、調べたんですか」
確かに、リンはアレスを住所地としてる。一応あそこには、エルハが泊まり込むための五畳ほどの部屋が奥にある。しかしそれは、和香子が知る由もないだろう。
「更に、その家だという場所に毎日帰宅している様子もない。……そんな浮浪者みたいな生活をしている男の子に、姪を預けることなんて出来ないわ」
「……」
二の句が継げなかった。
リンの服装は、紺のスウェットパーカーに黒のパンツだ。毎日洗濯しているし、食事もしっかりと摂っている。決して浮浪者とは言えない。しかし、和香子はそれらを無視して家を持たない者としてリンを認識した。
ソディールの話をしてしまえば簡単なのだが、こんな公衆がいる中でできる話ではない。更に、信じてもらえる可能性も低い。ただでさえ不信感を持たれているのだ。異世界の話などすれば、頭がおかしいとしてより警戒されるだろう。
(どうして、俺はこんなに……)
どっちつかずで、ヤジロベエのようだ。ふらふらとして、まさかこんな日が来るなんて思いもしなかった。
それでも、貫きたい想いがある。
「……それでも、晶穂と別れるなんて出来ません。あいつは、俺になくてはならない大切な人です」
真っ直ぐに和香子を見返し、リンは真剣に告げた。
まさか反論されるとは思っていなかったのだろうか。和香子は目を見張り、それからきゅっと唇を引き結んだ。「それなら」とゆっくりとその唇を開く。
「それなら、あの子に言ってくれないかしら。『叔母さんと暮らす方が、晶穂は幸せになれる』って」
「それは……っ」
「あなたの言葉なら、晶穂も頷くでしょう。……それとも、それも嫌だと?」
「……」
リンはうつむき、歯噛みした。
その時、和香子の鞄の中でスマートフォンが鳴った。どうやら会社からの連絡らしい。
通話を終えた和香子は席を立ち、カップを捨てるためにその場を離れた。それから一度リンの前に戻り、「じゃあ、行くわね」と挨拶した。
「……あなたがどちらかの選択をしてくれることを、期待してるわ」
「……っ」
リンは和香子が去った後も、食べかけのサンドイッチを手に取ることが出来なかった。
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