第214話 真希の想い

 バタン

 リドアスの戸を開くと、唯文と春直がこちらを見て目を丸くした。二人して勉強していたようだ。玄関ホールの机の上には、ノートと問題集、それに鉛筆が転がっている。

「お、お帰りなさい。克臣さん」

「どうしたんですか? そんなに慌てて……」

 はーはーと激しい息を整えようと胸を押さえる克臣に、二人の少年が驚きの声を上げる。「何でもない」とかすれる声で応えた克臣は、ちらりと自室の方を見た。

「二人共、真希を見たか?」

「真希さんですか? いや……春直は?」

「えっと……あ」

 春直は少し考えた後、ぽんっと手を叩いた。

「数十分前に、明人くんと一緒に帰って来てましたよ。サラさんと話してるの見ました」

「そうか。ありがとう」

 克臣は呼吸を整えるのもそこそこに、自室に向かって速足に歩き出した。

 不自然な鼓動が聞こえる。変な汗が背中を伝う。

 さっき真希と電話で話した時、彼女は何処か怒っている風だった。思い違いかとも思ったが、あの声の震えと一方的な通話拒否、それらが克臣を不安にさせる。

(最初は楽しげだったのに……。何でだ)

 女心というものは、男の克臣にはまだ理解しがたい。

 ため息を漏らしそうになりながら、克臣は自室の前に立った。中からは生活音が聞こえる程度。キッチンに立っているのか、料理の音がする。

 勿論リドアスには食堂もあるのだが、各部屋に小さなキッチンが設置されている。料理が趣味だという真希は、日々の食事のうち一度は自分で作っているのだ。

 普段ならば、克臣は「腹減ったー」と戸を開ける。しかし、今は出来なかった。

 ごくり。唾液を飲み込み、ゆっくりと意を決して戸に手をかける。ノブを回し、小さな声で「ただいま」と言った。

「お帰りなさい、克臣くん」

「た、ただいま。真希」

 克臣の帰宅に気付いた真希が、キッチンから顔を覗かせる。その目に怒りは見えず、克臣は「あれ?」と内心首を傾げた。

「お前……」

「ご飯できてるよ。汗だくだし、先にシャワー浴びておいでよ」

「ああ」

 真希の言う通りにして、克臣はスーツを脱いだ。

 シャワーを浴びながら、真希の様子が普段と変わらないことに疑問を抱く。しかし、怒っていないのならばそれでいいか、と嫌な汗を洗い流した。

 明人は既に寝かされていた。その眠りの邪魔をしないよう、克臣は部屋のふすまを少し開けて姿を確認するだけに留めた。

 夕食は、克臣の好きな照り焼きハンバーグだった。

 真希と向かい合って食卓に座り、いただきますの挨拶と共にまずは付け合わせのサラダに箸を伸ばす。サラダが終われば、次はハンバーグと白米だ。

 美味いなと言いながらご飯を口に運ぶ克臣に、真希は落ち着いた声で話しかけた。

「克臣くん、さっきの電話のこと覚えてるよね?」

「んっ……あ、ああ」

 思わず米がのどに詰まりかけた。それを茶で押し流し、克臣は真希の顔を見る。彼女の顔は真剣だった。

「克臣くん、言ったよね。『お前は明人と一緒にこっちに残るか?』って。……あれは、本心?」

「どういう、意味だ?」

「そのままだよ。あの言葉は、克臣くんが心の底から思って提案したことなの?」

「……っ」

「ねえ、答えてよ。あれは、私たちと離れても平気だっていう、あなたの本心なの?」

 真希は既に涙声だ。その時になって初めて、克臣は己の失態に気付いた。真希は、克臣の心を問うている。

(くそっ……。真希が怒るのも無理ねぇな)

 自分から視線を外され、真希はぎゅっと祈るように手を胸の前で握り締めた。

「重い女だって思われるかもしれない。それを承知の上で、私はあなたに言いたいの。……私は、あなたと離れたくなんてない。一緒に生きていきたいの。それが日本でも異世界でいい。―――でも、あなたが辛そうな顔をしているのが一番辛い。あなたが心から笑えないのなら、どちらにいたって同じだもの。私は、あなたと明人と、私たちの大切な人たちと一緒に生きていければそれでいいの」

「……後悔、するかもしれない」

 克臣の絞り出された声に、真希は首を横に振った。

「しないわ。あなたがどう思おうと、私はこの世界を気に入っているの。それに、両親にはもう話したしね」

「え……」

 思いがけない告白に、克臣は顔を上げる。「やっとこっち見てくれた」と真希は微笑んだ。

「お父さんとお母さんに、言って来た。『私は、克臣くんと明人の笑顔と自分の幸せのために、もうここには戻って来れません。二人共元気でね』って。ソディールのことも簡単に説明したし、口留めもした。二人共びっくりしてたけど、私の選んだ道ならって許してくれたよ」

 だから、と真希は笑みを見せる。

「一緒に、あなたの大好きなもう一つの故郷で生きていこう?」

「……敵わないな、これは」

「あなたの妻ですから」

 苦笑する克臣に、真希が言い返す。

 克臣は動いていなかった箸を箸置きに置き、立ち上がった。それから向かいに座る真希の前に立って、彼女を抱き締める。

「か、克臣くんっ!?」

 驚き焦りの声を上げる真希を無視し、克臣は愛しさと感謝を込めて呟いた。

「……ありがとう、真希。愛してる」

「……私も、愛してる」

(金輪際、こんなセリフ言えないだろうな……)

 この選択は、本来の真希の人生にはあり得ないものだったかもしれない。きっと彼女の両親も、苦渋の決断をしたのだろう。自分の娘を尊重するためとはいえ、大切な娘と生涯会えないなど耐えられないはずだ。

 それでも送り出してくれた人たちの想いに報いなければ。ぼろぼろと涙を流す真希を見て、そう考えずにはいられない。

 克臣は、必ず真希を、そして明人を幸せにすると誓うのだった。

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