第213話 二つの選択肢
「ただいま」
晶穂がリドアスの戸を開いたのは、その日の午後六時前だった。克臣は晶穂と別れた後に会社に戻り、後一時間ほどで帰って来るだろう。
扉が閉じるまで、あと二日と六時間ほどである。
玄関ホールを丁度通りかかったリンが、晶穂に駆け寄った。
「お帰り、晶穂。……会えたのか?」
「うん。……少し、聞いてくれる?」
曇ったままの表情で晶穂に乞われ、リンは嫌な予感を覚えつつも頷いた。
「俺の部屋に行こう」
廊下を無言で歩く。リンは後からついてくる晶穂を気にしたが、声をかけるのは
部屋の戸を開け、晶穂を招き入れる。彼女をベッドに腰かけさせ、リンは小型冷蔵庫から天然水を取り出した。
天然水は、ソディールの北にある山々からとれたものだ。それをコップに注ぎ、晶穂に渡す。「ありがとう」と受け取った晶穂は、コップに口をつけた。
「あの、ね。園長先生に会いに行ったんだけど、待ち合わせたお店に手紙の人が偶然来られたんだ」
「叔母だという人のことか」
「うん。……それでね」
晶穂は、叔母の名は二十六木和香子ということ、自身の両親の名が三咲陽大と采明ということを聞いたのだと話した。
とつとつと語る晶穂の言葉を、リンは黙って相づちを打ちながら聞いていた。
「それでね、和香子さんが言ったの。……手紙にもあったけど、わたしと暮らしたいから、一緒に来ないかって」
「……そう、なのか」
きゅっと膝の上で両手を握り締める晶穂に、リンはそう言うことしか出来なかった。
晶穂の表情は、迷いのそれだ。リンは、お前はこっちで生きていくと決めたじゃないかと言うことも出来る。しかし、それは晶穂を責めなじるだけで何の答えにもならない。
「……迷いがあるんだろ、晶穂」
「迷い。……うん、わかんなくなっちゃった」
「聞く。だから、幾らでも吐き出せ」
強がって苦笑するだけの晶穂を優しく抱き寄せ、リンは彼女に囁いた。その吐息にぴくりと肩を震わせた晶穂は、額をリンの胸に押し付ける。
「……嬉しかった。血のつながった人なんて、この世にいないと思ってたから。その人がわたしを幸せにしたいと願ってくれたことに、魅力を感じなかったと言えばうそになると思う」
「うん」
「この人と行けば、きっと人並みの幸せを得られるんだと思ったよ。養父母のもとで、笑顔で暮らせるんだろうって。それで、時々お父さんとお母さんの思い出を聞く」
「うん」
「それが、幸せなのかもしれないって。本当のわたしの生き方なのかもしれないなって思うくらいには、惹かれた」
「……」
でもね、と晶穂は言う。リンのシャツをしわになるほど握り締める。
「和香子さんと暮らすことは、リンにもう会えないってことなんだよ。ソディールと日本のつながりは、もうすぐ失われる。この世界で得た大切な人たちとの思い出が、消えちゃう……」
「―――っ」
そんなことはない。そう言いかけて、リンは口を閉じた。
レオラは言っていたではないか。二つの世界が切り離された時、向こうではソディールに関する記憶が消えると。
もしも晶穂が叔母と暮らすことを望むなら、きっとソディールの記憶はない方が幸せだろう。後ろめたさを感じて生きて欲しくはない。
だから、少し別のことを口にした。
「消えないよ。晶穂と俺たちの思い出は、残り続けるから」
残るのは、リンたちの中にのみだ。晶穂の選択次第で、リンはレオラに望むつもりでいる。彼女の中から俺たちに関する記憶を消してくれ、と。
励ましたつもりだった。しかし晶穂は一瞬硬直した後、シャツを掴んでいた手をリンの背中に回す。
「……なんで?」
「晶穂!?」
思いがけない晶穂の行動に、リンが目を白黒させる。それに構わず、晶穂は再び「なんで」と問うた。
「なんで、『行くな』って言わないの……?」
細い肩が震える。胸を締め付けられる思いを抱きながら、リンは晶穂を抱き締め返す。行くなと言いたい気持ちをその腕に籠めて。そして、声を絞り出した。
「……言いたいに、決まってるだろっ」
リンは晶穂の腕に応えるように、おそるおそる手を伸ばす。そして、言い過ぎているとわかり切ってる言葉を口調が強くならないように言う。
「……行くなと言えば、晶穂は叔母さんを切り捨てるのか?」
「……切り捨てるなんて、出来ないよ」
「知ってるよ。だから、悩んでるんだろ」
晶穂もわかっているのだ。どちらも選ぶという選択肢は、あり得ないということを。
自分のこれから全てを変えてしまう選択。それがこんな土壇場で現れるなんて、誰が予想しただろうか。
リンは嘆息し、ぼやくように言った。
「……俺が日本に行くと言えればいいんだがな」
「そんなこと言ったら、銀の華の使命が果たせなくなるよ?」
少しだけ笑みを浮かべ、晶穂が応えてみせた。リンも困ったように微笑む。
互いの心臓を近くに感じる。このぬくもりが失われるかもしれない。それを惜しむように、二人は沸騰しそうな熱の中、しっかりと抱き締め合っていた。
仕事を終えた克臣は、ソディールに帰る前に会社の前でスマートフォンを耳にあてていた。電話をする相手は、実家に帰省している妻・真希と息子の明人である。
トゥルル、トゥルル……
「お仕事お疲れ様、克臣くん」
「ああ、真希。……お義父さんたちは元気か?」
「元気だよ。明人が立ったのも喋ったのも、泣いて喜んでた」
大袈裟だよね。真希の笑い声がスマホを介して伝わる。傍に誰かいるのか、明人に話しかけている気配がする。
「お義母さんか?」
「明人を抱いてるの? うん、そう。さっきからずっと放してくれないの。初孫で嬉しいんだろうね。妹のところはまだだから」
「……初孫、か」
確かに義父と義母は、明人が生まれたという連絡を受けるとすぐに病院に駆けつけてくれた。夜であったにもかかわらず。
「……俺が一人で行った方が良いんだろうな」
「克臣くん?」
克臣の独り言は聞こえなかったらしく、真希に聞き返される。しかし、克臣はそれを適当にはぐらかした。
「何でもないよ。……真希、お前は明人と一緒にこっちに残るか?」
「……」
克臣の問いに口を閉じた後、真希がばたばたと場所を移動している音が聞こえた。廊下を走り、中庭に下りたようだ。真希の実家には小さな箱庭のような中庭があり、そこは真希が落ち着く場所の一つだと聞いたことがある。
「何言ってるの、克臣くん?」
「だから、お前たちは日本に残れと……」
「今から帰るから。先に寝ないでね」
克臣の言葉を遮り、真希は一方的に通話を切った。何となく、声が震えていた気がする。
嫌な予感を覚えながら、克臣は真希より早く着かなければと扉へ急いだ。
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