第197話 吐露した気持ち

 その日の夜。リンがジェイスのもとへと足を運ぶと、晶穂はまだ戻っていなかった。ランプの下で本を読んでいたジェイスは、少し落ち込んだ様子のリンを笑みで迎えた。

「お帰り、リン。晶穂は一緒ではなかったんだね」

「ただいまです、ジェイスさん。もうあいつも帰ってるものだと……」

 ガタ。ぱたぱたぱた。

 遠くから、誰かが帰宅した音がした。お帰り、というサラの声もする。

 その人物は、部屋に荷物も置かずに真っ直ぐこちらへ向かって来る。トントントン、と部屋の戸が叩かれた。遠慮がちな小さい声が聞こえてくる。

「晶穂です。ジェイスさん、入ってもいいですか?」

「ああ。お帰り、晶穂。リンもいるよ」

「あっ……はい」

 一瞬の躊躇の後、晶穂はゆっくりと戸を開けて顔を覗かせた。リンを見上げ、わずかに視線を外した。わずかにリンの心が痛むが、そうさせているのは自分だという自覚もあるため何も言えない。

 それでも無視されるわけではない。リンは胸の痛みを抑え込み、晶穂に笑いかけた。

「お帰り、晶穂。……先生に会いに行ってたのか?」

「うん。先生に、色々伏せて相談事してきたんだ。そしたらね、『あなたの望む未来のために歩みなさい』って言って下さったんだ」

「そう、か。お元気でよかったな」

「うん……」

 だからね。そう言って晶穂はリンの目の前に立ち、顔を上げた。目と目が合う。退きそうになったリンは、かろうじてその場に踏み止まった。

「だから、大丈夫だよ?」

「……本当に、いいのか?」

 念には念を入れ、リンは再び尋ねた。それが意味するところを正確に理解し、晶穂は強く頷いた。照れながらも笑みを浮かべる。

「うん。わたしは、リンの隣にいたい。みんなと、一緒に生きていきたい」

「……」

「リン?」

 突然黙って目を伏せてしまったリンに、晶穂は小首を傾げて顔を覗き込む。二人の様子を、ジェイスが無言で微笑ましく見守っている。

「どうし……っ」

「……ありがとう、晶穂」

 晶穂の目が見開かれる。大きく。彼女の体は、リンの腕の中にあった。

「何度も、お前を日本に戻さないといけない、その方が幸せになれると考えてきた」

「うん……」

「けど、手放したくないんだ」

 リンの腕に力がこもる。晶穂は、彼の心臓が早鐘を打っているのを聞いていた。それがリンのものなのか自分のものなのか、判断はつかない。

 静かに、リンは息を吐いた。

「辛い選択をさせて、ごめん。……ここにいてくれて、ありがとう」

「うん。……わたしも、ありがとう」

 恐る恐るリンの背に手を回し、晶穂は彼を抱き締めた。自分より大きく強い背中が、わずかに震えている気がして。

 数秒後、リンは全身を真っ赤に染めて晶穂を解放した。彼女の顔をまともに見ることなど出来るはずもなく、リンは黙って事の成り行きを見守っていたジェイスに視線を移す。ジェイスの目は、心底楽しそうだった。

「リン、かっこよかったぞ」

「……き、気にしないでください。そ、それより今日は何かありましたか?」

 話題の方向転換を試みたリンに苦笑しつつも頷き、ジェイスは地図を手に取った。

「うん。新たに眠り病と魔物が現れた場所がある」

 ここ数日で何度も使われた地図の折り目は一部弱くなっていて、丁寧に扱わなければ破れてしまいそうだ。

「ここだ」

 ジェイスが指し示した場所を、リンと晶穂が覗き見る。そこは、シンが封印されていた大樹の森の近くだった。

「報告によれば、この森の傍で、巨大な黒い化け物が出現したと。空が暗くなると同時に、数人の住民が倒れてしまったというよ」

「その人たちは今?」

「近くの大きな町に移送している。命に別状はないそうだ」

 ジェイスの言葉にほっと安堵しつつも、リンの目は地図から動かない。同様に真剣な目をして地図を見るジェイスの口から、固い声が漏れる。

「この森は、大陸でも指折りの聖域だ。力が強く残る場所でもある。あのシンが大昔から封印され続けた森だからね」

「もしかしたら、ダクトの力はその魔力を欲して魔物を出現させたのかもしれませんね」

 封印を継続させたり、扉を保持したり。魔力を残し続けるためには、その場所にも相当の力がなければ難しい。力を残し世界へ影響を及ぼし続けようとするならば、大樹の森は避けられない。

 ジェイスはふと地図から視線を外し、窓の外を見た。夜の帳は降り、星が瞬き始めている。

「期限は、後六日。そろそろ終わりにしないといけないね」

「俺、ユキたちを呼んできます」

 そう言うが早いか、リンはジェイスの部屋を飛び出した。彼を見送り、晶穂は自分の両手のひらを見つめた。そこに、リンのぬくもりが残っている気がして。

「晶穂」

「はい?」

 ジェイスに呼ばれ、晶穂は顔を上げる。その視線の先には、優しく細められるジェイスの瞳があった。

「あの子の傍にいてくれて、ありがとう」

 黄金色の目が、リンの走って行った先を見る。

「あの子は、ようやく見つけたんだと思う。……出逢いの理由はどうあれ、わたしも克臣も、きみたち二人のこれからを守ろう。一緒に、この難局を乗り越えて欲しい」

「勿論ですよ、ジェイスさん。わたしからもお願いします」

 晶穂の答えに満足し、ジェイスは「行こうか」と晶穂をいざなった。廊下の向こうから、リンとその弟たちの足音が聞こえてくる。ジェイスは携帯端末を操作し、何処かへ連絡を入れた。

「今、克臣にも伝えた。すぐに現地へ向かってくれるはずだ」

「わかりました。……行きましょう、大樹の森へ」

 そこで、ダクトの残滓を消し去らなければ。




 大樹の森では、不穏な風が吹いていた。自然のそれではなく、意図的に歪められた風が。

 その中心にあるのは、黒々しい瘴気の立ち昇る神殿。かつて、シンが封じられていた場所だ。ざわざわと木々の葉が不安げに揺れる。

 森の異変を、シンは遠いリドアスにいながらも感じていた。

「シン、どうしたの? 顔色が……」

「一香……」

 はぁはぁと荒い息をして苦しそうなシンの小さな背をさすり、一香は本気で狼狽えた。どうすればいいのかわからない。

 所はリドアスの中庭。元々ダクトが封じられていた珠を更に封じていた祠を置いていたこの場所で、生まれ育ち封じられた森の悲鳴を感じ取り、シンは震えていた。

「はやく……なきゃ」

「え?」

「早く、知らせなきゃ。リンた、ち……に……」

 どさり。シンは地面に崩れ落ちた。一香の呼びかけにも答えず、うわ言のように「知らせなきゃ」と繰り返す。


 ダクトが、あの森で待ち構えている。

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