第195話 お久し振りです
ここに降り立つ日が再び来るとは、あの時は想像すらしていなかった。
大学での講義を終えた晶穂は、一人で電車に揺られていた。今日は帰らないかもしれないし、帰るにしても遅くなる。そう、ジェイスと克臣には連絡済みだ。リンには、メールを送ることも出来なかった。
今朝早くに放たれた言葉が、胸の奥で響く。
―――これからの全てと引き換えにして良いのか、もう一度ちゃんと考えてくれ。
それは至極当然の言葉かもしれない。晶穂の今後を思っての、リンの言葉なのだろう。それは、痛いほどにわかっている。理解している。
「……だけど、わかりたくないよ」
潤みそうになる目を瞬きで制し、晶穂はこつんと横の窓ガラスに側頭部をあてた。膝に乗せた鞄の取っ手を握り締める。
車内にはぽつんぽつんとしか乗客がいない。晶穂の乗るところには、見渡しただけだが五人ほどだ。夕方のラッシュの時間帯にこれなのだから、昼間はもっと閑散としていることだろう。
今から、晶穂は水の樹学園の園長に会いに行く。もう一年以上ご無沙汰にしていたが、近況報告も兼ねて相談をしに行く約束をしたのだ。
今日の昼過ぎ、スマートフォンを見ると園長からメールが入っていた。時間のある時に連絡が欲しいという旨の内容だった。晶穂は一限分の時間が空いた時、中庭で彼女に連絡を入れたのだ。
「次は――」
車掌のアナウンスが聞こえる。次の停車駅で降りるのだ。
水の樹学園の最寄り駅、
園長との待ち合わせは、駅前のカフェだ。喫茶店と言った方が良い雰囲気を持った、落ち着いた店である。
カランカラン。扉についた鐘を鳴らし、晶穂は店員に待ち合わせをしていると告げた。園長の名を出すとすぐに合点がいったのか、奥のテーブルに案内された。
「ああ、晶穂……。よく来てくれたわ」
「先生、ご無沙汰しています」
晶穂に向かって優しい笑いじわを刻んでみせたのは、初老の女性。水の樹学園の園長を務める人である。
店員にアイスティーとオススメだという紅茶のケーキを注文し、晶穂は改めて園長と向かい合った。彼女はアイスコーヒーを一口飲むと、ほおっと息を漏らした。
「本当に久し振りね。元気そうで安心したわ」
「先生も。他のみんなは元気ですか?」
「元気よ。もう、騒々しくて困るくらいには」
それから、水の樹学園の出来事を中心に話に花が咲いた。晶穂がいなくなってから、二番目に年長だった少年少女たちが代わりを務めようと頑張っていること。幼稚園児だった子どもたちが小学生になり、日々賑やかに過ごしていること。運動会や遠足など、幾つもの行事も。
ケーキが到着し、晶穂はそれにフォークを入れた。ふわふわとした紅茶入りのスポンジに、生クリームが絡んでおいしい。その幸せな味を噛み締めつつ、晶穂は苦笑した。
「こんなお店があるなんて、こっちにいる時は知りませんでした」
「そうよね。晶穂は学校と園の行き来しかほとんどしていなかったものね。成長して園を出て、色々変わったけど、良いこともたくさんあったようね」
時折手紙を書いて近況報告はしていたが、それを踏まえて園長は微笑んだ。
「そして、今は悩みを抱えている、と」
「……あ、わかっちゃいましたか?」
「わかるわよ。何年も一緒にいたんだもの。……今日は、その話で来たんでしょう?」
園長の言葉に、晶穂は頷く他なかった。
水の樹学園にいた当時、園長先生は厳しくも温かい人だと思っていた。しかし今、その厳しさよりも穏やかさを感じる。
深呼吸を一つして、晶穂は口を開いた。
「信じてもらえないかもしれませんが、もう、先生にお会い出来ないかもしれないんです」
「……それは、就職を機に遠くへ行くということ? 東京とか海外とか」
晶穂は首を左右に振り、肩をすくめた。
「いえ。……詳しくお話しすることは出来ません。でも、わたしの選択によっては、という条件付きなんです」
「……続けて?」
「わたしは、この一年である人たちと出会いました。彼らはわたしを受け入れて、家族のように接してくれます。……何度困難なことにぶつかっても、彼らとなら何でも出来ると信じられました」
「うん」
きゅっと晶穂の眉間にしわが寄る。園長は余計な口を挟むことなく、静かに耳を傾けてくれた。
「でも、今。わたしは彼らと離れるか、一緒にいるかの選択をしなければならないんです。……一緒にいることを選べば、もうここに来ることはありませんし、離れれば彼らとは二度と会えません。……どうしたらいいのか、わからないんです」
晶穂の声が震える。目を伏せ、泣きそうなのを堪える。
しばらく何も言わなかった園長は、そっと晶穂の頬に手を添えた。そして顔を上げさせ、微笑む。
「顔を上げて。詳しいことは全くわからないけど、聞きはしないわ。でも、これだけは言える。―――私は、そして学園の家族は、あなたが何処にいても味方であるということ。あなたが望むことは、あなたにしかわからない。それでも、後悔しない方を選びなさい。私があなたに言えるのは、それだけよ」
「……後悔しない、か」
食べかけの紅茶ケーキを見つめる。そこに答えがあるわけでもないのに。
晶穂のことを見つめ、園長は「ふふ」と微笑んだ。
「さては、好きな人でもできたのかしら?」
「―――えっ!?」
真っ赤に染まる頬。晶穂は照れ隠しにアイスティーを一気飲みして、それが気管に入って咳き込んだ。
「あらあら、大丈夫?」
楽しそうに晶穂の背中をさする園長は、愛しいものを見る瞳で教え子を見た。
「……よかったわね、晶穂。大切な人がいるのなら、なおのこと。あなたの望む未来のために歩みなさい。それがきっと、想い人の願いでもあるのだから」
「―――はい」
日本に残るのか、ソディールに行くのか。それは究極のようでいて、実は単純な選択なのかもしれない。
失うものと得るもの。二つを天秤にかけた時、晶穂が選ぶのはどちらなのか。
そして、リンが何を選ぶのか。
「……晶穂。また、会いましょうね」
「はい。先生もお元気で」
別れ際、二人は微笑み合った。園長に抱き締められ、晶穂の胸の奥が痛む。
駅へと消えた晶穂を見送り、園長は呟いた。
「幸せを選びなさい。どちらを選んでも、あなたの進む道は平坦ではないわ」
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