第194話 迷いの先に

 ざわざわと、学生たちの話し声がさざ波のように聞こえてくる。

「……で、この場合……」

 教授の声が講義室内に響き、前方にいる学生が集中して聞き入っている。リンは半分より二列程前の席、廊下側に座り、ノートにシャープペンを走らせていた。

 現在、経済学部の必須科目講義中である。ふと時計を見れば、後十分くらいでチャイムが鳴る。

(そういや、晶穂はちゃんと来てるのか……?)

 晶穂を突き放すような態度を自分が取ったのは、今朝のこと。彼女の悲鳴のような問いかけは、勿論聞こえていた。

「……いて欲しいに、決まってんだろ」

 かすれる声で呟かれた声は、教授の声にかき消されて周りには聞こえていない。

 あの後すぐにリドアスを出てしまったため、晶穂がどうしたのかは知らない。

 扉が消えるまで、約一週間。それまでにやるべきことは、魔物を全て倒すこと。そしてジェイス曰く、大学の講義を期限まで受け切ることらしい。

「何言ってるんですか、ジェイスさん……」

 昨夜食堂で言われ、リンは呆気に取られた。彼の隣では、晶穂も目を丸くしていた。

 そんな二人をにこにこと見つめ、ジェイスは「考えてもごらんよ」と手に持っていた茶碗を置いた。

「リン、きみが通う大学は日本にあるものだ。だから、扉が消えれば学ぶことは叶わない。そうだろ?」

「はい」

「だから、この一週間、全力で学ぶんだ。昼は大学で学び、夕方からは魔物を倒しに行く。ハードなことはわかり切っているが、昼の調査や魔物との戦いは、基本的にリドアスに残るわたしたちが受け持とう」

「だけど、俺も……」

「リン」

 真っ直ぐにリンの瞳を見据え、ジェイスは微笑んだ。

「今しかないんだ。こちらに帰って来てからでは、教えられることと教えられないことがある。……わたしの我儘を聞くつもりでも構わない。きちんと、学生をしておいで」

 勿論、魔物との戦いに手を抜くことは許さないよ。そう言うジェイスの目に、嘘や誤魔化しはない。

 だからリンは、ジェイスの願いを了承した。自分の隣にいる少女が、机の下で両手を握り締めていることに気付きながら。

(俺は、あいつが幸せになる選択をしてほしいけど……。俺は、どうしたいんだろうな。って、わかりきってるよな)

 リンの願いは一つだ。しかし、それは一人よがりな我儘であるような気がする。リンは、自分の気持ちを晶穂に押し付けるのが怖かった。

「氷山、出ないのか?」

「えっ」

 後ろに座っていた同じゼミの男子学生に声をかけられ、リンは我に返った。いつの間にか講義は終わったらしい。リンは急いで黒板の内容をノートにまとめ、席を立った。

「氷山、次は何処に行くんだ?」

「俺? 一限分空くから、ちょっと研究室に行ってくる。先生に聞きたいことがあってさ」

「最近勉強熱心だよな、今まで以上に。起業でもする気か?」

「まさか」

 同ゼミ生と別れ、リンは研究室棟へ向かった。その途中、中庭を通ることになる。リンは木陰のベンチに、晶穂が座っていることに気が付いた。

「あき―――」

 声をかけようとして、立ち止まる。彼女は何処かへ電話していた。

「はい。じゃあ先生、またあとで。……はい」

(……園に行くんだろう)

 どうやら晶穂は、水の樹学園の園長に電話をかけていたようだ。そして今日の講義が全て終わったら、会いに行くという約束を取り付けていた。

 リンは、自分の言ったことを実行している晶穂に気付かれぬよう、そっとその場を離れた。




 いつもより少し早めに高校の教室に到着した唯文は、ガラガラと音をたてる戸を閉めた。誰もいない、朝日に照らされた教室。黒板の隅に書かれた日付は、昨日のままだ。

 唯文は自分の席に荷物を置き、黒板消しを手に取った。

「今日の日付は、と」

 カッカッカと白のチョークを走らせる。書き終わった時、丁度とが引き開けられた。そこに立っていたのは、石崎天也いしざきてんやだった。彼は唯文を見つけると、片手を挙げて嬉しそうに笑った。

「なんだ、唯文。早いな。おはよっス」

「……おはよう、天也」

「変な顔してんな、唯文。何だよ? 父親と喧嘩でもしたのか?」

「いや、してない」

「じゃあ、何だってんだ?」

「……」

 覇気のない友人を手招きし、天也は彼を席に座らせた。それから唯文の顔を正面からじっと見つめる。

「……お前、あれか? 前に言ってたことがらみだろ」

 言外に、ソディールでのことだろうと言い当てられ、唯文は天也の察しのよさに脱帽した。苦笑いをしながら、わざとらしく肩をすくめる。

「流石。よくわかったな、お前」

「わかるだろ。……けど、もう他の奴らも来る頃だ。昼休み、屋上に行こうぜ」

「わかった。ありがとう」

「気にすんな」

 鞄から教科書類を取り出し、机の中に仕舞う。一限目は数学だ。

 唯文と天也の席は前後であり、天也がいつも椅子の背もたれにを抱え込むようにして喋っている。今朝もいつものように、二人は数学の予習をしながら過ごした。天也が宿題の問題を解き忘れていたことも発覚したが。

 他のクラスメイトに怪しまれないよう注意したつもりだった。しかし唯文の顔色が悪かったのか、何人かの生徒と先生に体調の良し悪しを聞かれた。

「お前、なかなかヤバかったな。普段やらなさそうなミスとか多かったんじゃないか?」

「そう言わないでくれよ。授業はちゃんと聞いてたし、天也が居眠りしてる間のノートも取ってる」

「え。後で見せてくれ」

 数学の小テストの答え合わせをし、唯文と天也は鞄を持って校舎の屋上に来ていた。屋上は本来、立ち入り禁止区域だ。しかし何度も生徒たちが忍び入ってきたため、今では先生たちも黙認している。時折、二人はここで教室では話し辛いことを話すためにここを訪れていた。

 購買の焼きそばパンをほおばりながら、天也が唯文に問う。

「で、話って?」

「ああ。実は……」

 同じく購買で買い求めた鮭のおにぎりと肉まんをビニール袋から取り出した唯文は、扉の消滅などの話を大まかに語った。時々ペットボトルのお茶を口にするが、すぐに喉が渇いてしまう。

 天也は話を聞き終わると、目を瞬かせて伏せた。

「それじゃあ、もう本当に唯文と会えなくなるのか……」

「そうなる、かな」

「……」

「……」

 ピューイという鳴き声が響く。空を舞うあの鳥の声だろうか。

 唯文はおにぎりをかじり、飲み込む。そして「決めたんだ」と呟いた。

「揺れに揺れたけど、決めた。おれはソディールで、銀の華の一員として、守りたいものを守れるようになる。……なんて言っててこっぱずかしいけど」

「確かに。唯文らしくないな。―――ははっ」

「「あはははっははは」」

 二人の少年は笑い転げ、腹を抱えた。

 ひとしきり笑い終えると、どちらかともなく手を相手に伸ばした。

「また、何処かで会おうぜ。な、唯文」

「ああ、天也。お前のことだけは忘れられそうにない。……会えて、本当に良かったよ」

「それは、こっちのセリフだな」

 唯文と天也は笑顔で、しかし温かいものが頬を流れていることを気にせずに、固く握手を交わした。

 これが今生の別れになるのか否か、それは誰にもわからない未来。

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