第180話 白い人影

 目覚めたばかりの娘が妻に食事をねだるのを横目にしつつ、テッカはジーランドと向かい合ってソファーに腰を下ろしていた。

 テッカは昨晩、初めて魔物と相対した。それは巨大な狼のような姿をし、目覚めている村人を襲おうとしていた。二者の間に入り、テッカは魔物の鼻っ柱に蹴りを叩き込んだ。

「おい、さっさと行け!」

「ひ……は、はいっ」

 転びそうになりながらも、青年は自宅に逃げ帰った。

「さて」

 テッカは武術の構えを取り、魔物と向かい合った。リンたちから簡単には聞いていたが、本物を見るのは初めてだ。

「お前が、空から降って来るって噂の魔物か?」

「……グルル」

「眠った者は襲わず、起きている者をのみ襲う。……狙いは何だ?」

「ガゥルルル……」

「……返答なし、か。埒が明かねぇ、来いよ」

「グァラッ」

 黒い狼は、テッカの挑発に乗るようにして跳び上がった。助走などない。

「……」

 テッカはその場から動かず、じっと狼の目を見つめる。

 ついに狼の牙がテッカの頭を襲おうとした刹那、彼は動いた。

「ガァッ」

 拳が鼻先に叩き込まれ、そのまま魔物は後方に吹き飛ばされた。

「……ふん」

 鼻を鳴らし、テッカは次の攻撃を予想して身構えた。

 テッカのような狼人には犬人と同じく、猫人の爪のような自前武器は存在しない。そのために、刀や剣などの武器を持つことが多い。

 しかし、テッカは我が身を武器とする武術を選んだ。独自に柔道や空手、ボクシングなどを組み合わせ、実戦で力を発揮する武術を創始した。それを今は、息子のユーギが無意識に受け継ごうとしている。

 幼い頃仕込んだ基礎に、ユーギはジェイスや克臣に教わった技術を上乗せし、進化させつつある。本人には言わないが、テッカはいつか息子が自分を追い抜くのを楽しみにしている。

(それまでは、何物にも負けられん)

 テッカはその後も、数度魔物と手合わせし、急所を把握した。

「――そこだ」

 飛びかかって来た魔物の眉間に踵落としを決め、テッカはふと息を吐いた。ドオッと巨体を倒した魔物は、黒い霧となって姿を消した。

「……皆が目覚めたということは、魔物の脅威は去ったということでしょう。オレはこれから森に入り、神樹とその周辺の様子を見て来ます」

 夜の出来事をジーランドに報告した後、テッカはそう告げて頭を下げた。

 すぐに踵を返そうとするテッカを押し留め、ジーランドは「実はな」と口を動かした。

「実はな、テッカ。……あるものを見たという話を聞いたのだが」

「何ですって?」

 テッカが振り返ると、ジーランドは再び座るように促した。

「……今から話すことを、リンくんたちに伝えてくれんだろうか?」

「了解しました」

 テッカは前傾姿勢になり、手の指を組んだ。ジーランドは水を一口含んで、口内を湿らせた。


「……それで、ジーランドさんには何と言われたんですか?」

 その日の夕方にリドアスへ戻って来たテッカに、リンは尋ねた。場所はリンの自室。ここならば、多少内密の話をしても漏れにくい。

 組んでいた腕を解き、テッカはその手を膝へと置いた。

「ある女の子が見たそうだ。……夜の闇の中、魔物を倒す白い人影を」

「白い、人影」

「そうだ。それは少年……その女の子は十一歳だが、同い年くらいに見えたそうだ」

「俺たち以外で、魔物と戦う人物がいると」

「……可能ならそいつを探し出し、情報を聞き出すべきだろうな」

 そいつはオレたちの知らない何かを知っているかもしれない。テッカにそう言われ、リンは頷いた。

「わかりました。貴重な情報を持ち帰って下さり、ありがとうございます」

「構わんさ。じゃあ、オレはユーギに稽古をつけてくる」

 軽く手を振り、テッカは部屋から出て行った。彼を見送り、リンは後頭部を乱雑にかいた。

(白い少年、か。そいつには魔物を追いかける中で出逢えるだろうが……)

「白、か。……何処かで読んだ気がするんだけどな」

 闇が消えたと報告した当日の夕刻、テッカはリドアスに姿を見せた。

 ジェイスとエルハが北の大陸にあるトースの神殿跡に向かったのは、報告を受けてすぐの午前中。彼らと別れて大学の講義を受け、リンが戻って来たのがつい三十分程前のこと。まだ克臣も帰宅していないが、年少組は早々に戻っている。

 そして一人、テッカが部屋を出るのを待っていた人物がいる。テッカがいなくなって数十秒後、遠慮がちに戸が叩かれた。

「入れよ、晶穂」

「う……。よくわたしだってわかったね」

 そう困り顔で戸の隙間から顔を覗かせた彼女を手招きし、リンは部屋に迎え入れた。

「どうした?」

「ああ、うん。克臣さん、あと三十分くらいで戻るって」

「了解。じゃあ、待つか」

 リンの腰掛けているベッドが、ギシリと音をたてる。一つ伸びをして、リンは立ったままの晶穂に声をかけた。何気ない風を装っているつもりで。

「い、いつまで立ってるんだよ。ここ、座れば?」

「こ、ここって……」

 リンが指で示したのは、彼のすぐ隣の場所。いつまでも慣れない自分に呆れを覚えるが、こればかりはどうしようもない。晶穂は頬が赤く染まるのを自覚しつつ、大きくなる心臓の音を抱えてゆっくりとリンの傍に座った。

「……」

「……」

 リンは右だけ立て膝し、頬杖をついて窓の外を眺めた。現実逃避である。

 ちらりと隣を見ると、晶穂と目が合った。彼女もリンを気にしていたらしい。ほぼ同時に視線を逸らせる。

 このままでは、晶穂を隣に来させた意味がない。

 リンは呼吸を整え、体ごと晶穂に向けた。

「さっきテッカさんに報告を受けたけど、晶穂にも思い出すのを手伝ってほしい」

「思い出す? 何を」

「言われたんだ。村人の一人が、夜中に魔物を倒す白い人影を見たって」

「白い、人影? そんなの、見たことないよ……」

 自信なさげに首を振る晶穂に、リンは「違う」と否定した。

「実際に見たかどうかじゃない。……書物の中で読んだことは?」

「書物?」

「そう。物語とか、そういうこと」

 下唇に指をあて、晶穂は考え込んだ。その隣で、リンも腕を組む。

 二人で沈黙すること数十秒。同時に声を上げた。

「ああ」

「そっか」

「……あ、ごめん」

「すまん」

 同時に相手の声に気付いて、同時に謝罪する。少し可笑しく思いながらも、リンと晶穂は声をそろえた。

「「―――『古神事ふるかみのこと』」」

 それは世界創造の物語を記し、神子の誕生を書き留め、古来種が生まれた由縁を記録した書物である。幾つもの伝記や神話を集めた本である。

 何度もその書物の世話になってきた。今はリンの手元にないが、図書館で静かに眠っているはずである。

 リンは立ち上がり、晶穂に手を差し出した。「行こう」と呟く。

「フォルタさんに会おう。図書館のぎりぎり開館時間内だけど、一刻を争う。あの人は得たい本を館内から瞬時に探し出す能力を持ってる」

「うん。克臣さんが帰って来る前に」

 晶穂はリンの手を取り、引っ張られるようにして駆け出した。

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