第168話 選べない
――はあ。
大きなため息をつき、リンは自分のベッドに背中から倒れ込んだ。その傍の椅子には、暗い顔をした晶穂が座っている。一人用のソファーに近い座り心地のそれだが、今晶穂は体育座りをするように膝を抱えていた。
(そりゃ、そんな顔にもなるよな。……晶穂が日本で生きていくことを選べば、もう二度と会うことはないんだろうな)
底知れない寂しさを覚えつつも、リンはその気持ちにふたをしようとしていた。
きっと、晶穂はソディールに残ることを選ばない。彼女は本来、日本で生きていくべき人だ。ソディールに連れてきたのは不可抗力だと思っているが、それが正しかったのかはわからない。そしてそれは、克臣に関しても同じこと。二人に選ばせてはいけない。
「……晶穂?」
むくりと起き上がり、リンは晶穂に呼びかける。しかし返答はない。
リンは改めて、彼女の頬に手を伸ばした。顔にかかっていた灰色の髪をかき分け、そっと触れる。その手にぴくりと反応し、晶穂の肩が跳ねた。
「ひゃうっ」
「……顔色が悪い。部屋に戻って休め」
晶穂の頬は冷えていた。自分の指も相当に温度が低いのだが、それ以上だ。二人共、血の気が引いているのだろう。
早く布団をかぶって寝た方が良い。ゆっくり眠れば、顔色も戻るだろう。
しかしリンの提案に首を振り、晶穂は自分に触れているリンの指に己の手を添えた。
「おいっ」
「リンも冷たい」
「……」
はあっと温かな息を吹きかけられ、今度はリンの肩が震える。カアッと赤く染まる顔を見られたくなくてそっぽを向いた時、不意に晶穂がリンの手を握った。
その指が小刻みに震えた気がして、リンは晶穂に目の焦点を合わせる。彼女は下を向き、か細い声で呟いた。
「…………や」
「え」
「嫌。離れたくないよ。ずっと……リンと、みんなと、一緒にいられると思ってた」
「……うん」
「同じように、いつでも、園長先生や大学の友だち、昔の友だちにだって会いに行けると思ってた」
「……」
とめどなく溢れ出る晶穂の言葉を、リンは止めない。ただ晶穂の手を握り返し、彼女の頭を自分の胸に寄せただけだ。晶穂はリンのシャツを握り締めた。
「でも、それには限りがあって……そんなことも知らずに、わたし、能天気だったな。……どっちも大切な世界で、選べないよ」
時折上ずる声を、リンは無言で聞いていた。
『どちらか一方を選ぶことなど、出来ない』。それは、晶穂の正直な気持ちだろう。大学で学ぶために日本へやって来たリンとは、思い入れが違う。日本で生まれて育ち、関係性を持つ人々がたくさんいるのだ。
それでも天秤にかけて選べないと言われたことに、リンは少し嬉しさを感じていた。その気持ちは、すぐに心の奥へと押し込める。
しばらくして落ち着いたのか、晶穂が「あっ」という小さな声を上げてリンから離れた。彼女の顔が触れていた部分のシャツが濡れている。
「ご、ごめんなさい、リン。わたし……」
「構わない。俺も、突然のことで混乱してる。扉の件は明日の夜から考え直そう。ジェイスさんたちによれば、まだ余裕があるらしいし。……明日は、ジェイスさんの指令を遂行しないといけないからな」
「リン……ほんとに?」
晶穂の白かった頬に、赤みが戻っていた。自分でも現金だと思ったのか、彼女は頬に手をあてた。その様子にほっと胸を撫でおろし、リンはそのまま彼女の手を引いた。
「わっ。……え、ちょ、ちょっと!?」
「もう、思い悩むな。寝ちまえ」
(待って、待って。……待って!?)
晶穂の頭の下には、柔らかな枕がある。タオルケットが体にかけられ、晶穂はパニックに陥った。目の前には、目を閉じたリンの顔がある。二人で向かい合って、ベッドに倒れているのだ。
手は繋いだまま、指が絡まり、簡単には離れられない。晶穂はリンに強く抱き寄せられていた。これは、アウトではないのか。色々と。
心臓が早鐘を打ち、絶対に眠れる状況ではない。
それでも緊張以上の安堵感に包まれ、加えて精神的に疲れた体は休眠を欲した。数分後、晶穂は穏やかな顔で寝息をたてていた。
「は……。寝た、か」
自分の胸の中で眠る晶穂の安らかな顔を見てとり、リンは緊張を解いた。
大それた行動だったという自覚はある。心臓は、ばくばくとせわしない。それでも、晶穂を寝かせるにはこれしか思いつかなかった。
(一人で部屋に帰すのも心配だしな。こいつ、一晩中悩みそうだ)
晶穂が悩み眠れていないのではないか、そう考えるだけでリンも眠れなくなる。自分の精神の安定のためにも、アウトスレスレに走らなければいけないと考えたのだ。
ただ、リンは自分の過保護具合に呆れてもいた。
正直、心臓は無事ではない。リンはそれに気付かないふりをして、晶穂に触れる手に力を込めた。
「―――俺が、必ず護る。みんなの未来も、きっと」
独りではない、今の自分になら出来る。
大きすぎる願望も、口にしてしまえば叶いやすくなる。リンはそう信じ、晶穂の温かさを感じながら眠りに落ちた。
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