第167話 いらない仮説
今のところ、リドアスにある扉に異常は見られない。自分と晶穂はソディールに戻って来られたし、先程真希が帰宅した声を聞いた。そうであるのなら、サラもすぐに帰って来るだろう。彼女はエルハが招集された後も学祭に残っていたと晶穂が教えてくれた。
「『戦闘能力は皆無だから』って笑ってた。武器を持つことだけが戦うってことじゃないと思うけど……」
晶穂はそう言ったが、リンも同じように考えている。
大切な人が傍にいると思えば強くなれる。力を与えるのは武力ではなく、存在が大きい。無力などということはないのだ。
難しい顔をしているのが見て取れたのか、ジェイスが話柄を変えた。
「ところでリン、明日も役割はあるのかな?」
「え……いや、俺はフリーです。捕まらなければ。晶穂は?」
「わたしは午後に数時間の当番があります」
「最終日は?」
ジェイスに問われ、リンは晶穂を見る。彼女は首を横に振った。
「俺も晶穂も何も……。あのジェイスさん、どうされたんですか?」
不審顔で尋ねるリンに、ジェイスはにっこりと微笑んだ。何かを企んでいる顔だ、とリンは直感した。
「では明後日、わたしたちと合流しよう。それまでに情報を集めて動けるようにしておくよ。だから明日は、二人で学祭を楽しんでおいで」
「は…………はっ!?」
「ふぇっ!?」
「ははっ。お前ら二人共、顔真っ赤じゃん」
克臣に指摘されるまでもなく、リンと晶穂は耳や首まで赤く染めて硬直した。にやにやと見ていたユキも便乗する。
「いいじゃん、お兄ちゃん。どうせ人目を気にしてデートなんてしてこなかったでしょ?」
「……お前、体と心の年齢が一致した途端、言うようになったよな」
「気のせいだよ」
克臣の横でにやつくユキの身長は、既に百五十センチ程に伸びている。百七十センチのリンよりは勿論小さいが、四歳で時が止まった頃から考えると、随分と成長した。
加えて生意気な言動が増えた。しかし今は、リンにそれを注意するような余裕がない。
「で、ですけどっ、そんな浮ついたこと、こんなに大変な時に出来ないですよ!」
「そ、そうですっ。みんなが頑張って……春直とエルハさんなんて危ない目にもあったのに」
晶穂も必死に抵抗を試みる。扉がいつどうなるかもわからない状況で、デートなんて出来るわけがない。
しかし彼女の瞳の奥には、誤魔化しきれない期待が宿っている。何事もなければリンと一緒に過ごしたかったという、小さな欲が。それをジェイスに見抜かれてしまったのだろう。
わたつく二人を微笑ましく思いながらも、ジェイスは表情を変えた。
「むしろ、もう今しかないという可能性も捨てきれない」
水鏡を通して、全員の目がジェイスに集まる。
「一番あってほしくない仮説、だ。扉が消えるということは、近々地球との行き来が不可能になる、という可能性がある」
「行き来が不可能になる……?」
今までふわふわとしていた晶穂の目が、凍る。ジェイスが何を言っているのか、理解出来ない。脳が理解を拒否している。
「どういうこと、ですか?」
「……そのままの意味だよ。克臣も聞いてくれ。扉がなくなることは、日本への移動手段を失うことと同義だ」
「……もし、扉を一つでも残すことが出来たら?」
固い声を発したのは、克臣だ。妻と息子をこちらの世界へ連れて来ている彼も、事の重みを改めて理解した。それでも小さな光を逃すまいと、可能性を口にする。
「それが最良だね」
ジェイスはわずかに微笑んだ。それが最良であり、最も可能性の低い事柄であるとわかっていたから。
「克臣、晶穂……唯文もね。最悪のシナリオに向けて、よく考えておくんだ。どちらの世界を選ぶのか」
「そのタイムリミットは、近いんだろうな」
克臣の声に感情はない。見れば唯文は歯を喰いしばり、晶穂は胸の前で祈るように組んだ指を震わせている。リンは晶穂にかけるべき言葉を見つけられず、彼女の顔を直視出来ずにその手を握り締めた。
「……っ」
「わかりました。……だから、明日はよろしくお願いします」
何かを言おうとした晶穂を制し、リンははっきりとした声色で頭を下げた。それに応じ、ジェイスと克臣が頷く。
「了解だよ」
「リン、晶穂。先のことは考えず、明日はその時のことだけを考えて楽しんで来い。じゃねえと、行かせる意味がない」
片方の口端を吊り上げた克臣の表情に、先程までの影はない。彼の隣で、意を決したように唯文が一歩前に出る。
「おれらが、明日中に突破口を見付けてみせます。だから、諦めません」
「そうだな」
ぐっと晶穂の手を握るリンの指に力が入った。リンのその言葉を最後に、通信は終了した。
ピコンッ
水鏡がただの鏡になるのと同時に、晶穂のスマートフォンがメッセージ受信した。それを合図にリンと晶穂は手を離す。互いが触れていた部分が熱を持つ。
「……ぁ、見なきゃ」
余韻に浸る間もなく、晶穂はメッセージアプリを起動した。するとそこに表示されたのは、同ゼミの女子学生からのメッセージ。
『明日の午前中、用事が出来ちゃったから当番変わってくれないかな!? 勿論、午後の三咲さんのところは私がするから!』
「……え、い、いいけど」
ちらりとリンを見上げる。その視線に気付いて首を傾げた彼に、メッセージを見せる。リンの目が文を追い、晶穂から視線を逸らせた。
一分ほどの沈黙が場を支配する。
「……この人、回し者とかじゃないよな?」
「たぶん」
誰の回し者かは、言わずもがなである。
喜びと困惑、そして後ろめたさをないまぜにした表情で、晶穂はリンを見上げた。
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