落空世界編

星丘大学学祭

第158話 学祭準備

 ―――パキンッ

 何かが、割れる音がする。氷にひびが入るような、澄んだ音。

 ―――パキ……パキン

 皿を落とした音ではない。まして、プラスチック片を割る音でもない。

 徐々に広がって行ったひびから、欠片が落ちる。

 ―――パキンッ

 それは、誰も知らない場所で起こった変化。




 秋が深まり、晩秋を迎えた。秋空の下、賑やかな声が響く。

「おーい、その立て看板こっちな!」

「ねえ、飾り何処いった?」

「誰か、実行委員に聞いて来て~」

 星丘大学では、学祭の準備期間最終日を迎えていた。構内のあちこちで、学生たちの楽しそうな話し声が聞こえる。

 この時期、講義よりも学祭準備に没頭する者も多く、教授たちはそれに頭を抱えていた。しかしキラキラと光る笑顔を浮かべる学生たちの様子に目を細めて協力していることも、また事実。

 研究室に所属しているリンも、仲間たちと共に日頃の研究発表と屋台の準備に勤しんでいた。パソコンで作った表やグラフをスライドで見せられるように加工し、設定する。その反対側では、屋台の看板や客寄せ用の衣装作りが行われている。大きめの講義室を作業場として借りているため、二つのグループの距離はある。

「ああ、氷山。ちょっとこっち来いよ」

「何ですか、先輩?」

 パソコン作業をしていたリンが顔を上げると、のこぎりで木の板を切っていた青年が手招きしている。リンは作業を別の生徒に任せ、先輩のもとへと動いた。

「何か用ですか?」

「実はな」

 先輩は自分の作業を止め、後ろのラックにかけられた服を指差した。

「あれ、お前に着てもらいたいんだけど」

「……却下です」

「残念。やっぱダメか」

 先輩は明らかに残念というよりも楽しげに見える。その後も何度か誘いを受けたが、リンは突っぱね続けた。どうにか、屋台の売り子として参加することで衣装は不問とされた。

 リンは思う。手のひらサイズのたい焼きのピンズが胸についた燕尾服、そんなもの誰が着るか、と。


 準備が一段落付いて外のベンチで一人休んでいると、人影が差した。

「リン、お疲れ様」

「ああ、晶穂か。そっちは準備進んでるのか?」

「古典の研究発表を兼ねたクイズを作ってそれを教室に貼り出すだけだから、もうすぐ終わるよ」

 晶穂は文学部で日本の古典を研究する立場だ。得意のイラストを活かしつつ、わかりやすい説明文を書くのが難しいのだと言う。

「何処まで書いて良いものか……。学校のテストで丸を貰えるとは限らない話もこちらは知ってるから、小中学生相手になると、なかなか線引きがね」

 隣に腰を下ろした晶穂が「そっちは」と問う。

「俺たちは部屋を借りての発表と掲示物での発表、それにたい焼き屋までやろうっていう集まりだからな。メンバーは分かれてて両方やるってことはないけど、何故か売り子を手伝えって先輩に言われてるんだよな……」

「ふふっ。リンならお客さん集めそうだもんね」

 くすくす笑う晶穂に、リンは口をへの字に曲げた。

「こう言っちゃなんだけど、俺は不特定多数にキャーキャー言われるのは苦手だ」

「知ってる。けど、ファンクラブまであるんだから協力してあげて?」

 星丘大学の氷山リンファンクラブは健在だ。そのメンバーに恨まれないため、リンと晶穂の関係はソディール以外では先輩と後輩のままだ。晶穂に対する疑念とやっかみはゼロとは言えないが、リンが年の離れた幼馴染だというデマを広めたために下火になってはきている。

 晶穂もリンに迷惑をかけないよう、声をかけるのはリンが一人でいて尚且つ人気のない場所にいる時だけだ。今二人がいるベンチは丁度校舎の裏手に位置し、中庭の喧騒が聞こえるのみである。

 無邪気に売り子への協力を薦めてくる晶穂の手を、リンが不意に引いた。

「……かと、思った」

「リン? どうし……わっ」

「少しは妬かねえのかよっ」

 踏ん張ることが出来ず、晶穂は引っ張られるままにリンの胸に飛び込んだ。一気に顔に熱が集まり、心臓の音が大きく速くなる。焦りのレベルは急上昇だ。

「リ、リンッ。ここ、大学だよ!?」

「……」

 返事のないリンを見上げると、至近距離で不機嫌そうに晶穂を見下ろしていた。

(もしかして、リン。妬いてないように見えるから怒ってる……?)

 恋人の本心に少し触れた気がして、晶穂は身体が更に火照るのを感じた。照れを抑えきれなくなって俯くと、リンのシャツを握る。そしてぼそぼそと弁解を始めた。

「や、妬いてないわけじゃ、ないよ? たくさんの美人な女の子たちに囲まれてるリンを見るのは、やっぱり複雑、だよ。……わ、わたしだけ見てほしいとか、思う……けど……」

 どんどん小さくなっていく晶穂の言葉は、全てリンの耳にしっかりと届いていた。

 勇気を振り絞って顔を少し上げ、ちらりとリンを見上げた晶穂の顔は真っ赤で、目が潤んでいる。リンは自分の心臓が破れるのではないかと不安になったが、震える手で晶穂を精一杯に抱き締めた。

「――怒って、ごめん。俺が女の子として見てるのは、晶穂だけだから……。うわ、何だこれ。恥ず……」

「……ッ。うん」

 頷くことしか出来ない晶穂は、しわになってしまうことに躊躇しながらも無言でリンのシャツを握り締めた。

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