第137話 黒い声
それは音もなく立ち上り、天井を覆う。
「克臣さん、春直!」
「ぶ、無事ですか!?」
呆然と見上げる克臣と春直のもとに、晶穂を抱き上げたリンが飛び降りた。
「あ、ああ。だが、そっちは」
「ストラは何処かへ引っ込んでしまったので、動けました。……みんな、戦っている余裕はないですからね」
ちらり、とリンは自分たちが先程までいた方を見る。ジェイスもユキも、ユーギ、唯文も敵方も、全員が黒い何かをあっけに取られて見ている。あれほど激しかった攻防が止まっていた。
祠からは留まることなく黒いものが吐き出されている。もしかしたら、空間全てがこれによって覆われてしまうかもしれない。そんな危惧を抱いた時、晶穂の頭に何かが響いた。
『―――だ』
「え?」
『―――の――だ。どうし―――いんだ?』
「晶穂……?」
「痛いっ。リン……!」
リンの腕の中で、晶穂は頭を抱えて悶えた。何かが頭に直接響く。それは一つの声のようでいて、幾重にも重なった複数の声のようでもある。
晶穂はぎゅっとリンの服にしがみついた。頭が、割れるように痛い。何かが、訴えてくる。恐ろしく、暗く、黒にまみれた声を。
リンは晶穂を抱き上げた状態から地面に降ろした。まだリンの胸元を握っていたが、「傍にいるから」と言うと放してくれた。
「おい……見ろッ」
克臣が冷汗をかいている。首を伝う。いつものおちゃらけた雰囲気がない。春直も声を失っている。リンはその視線の方向を見て、目を疑った。
『―――せ。―――を―――――――せ!』
黒い何かは、渦を巻き始めた。台風のように。しかし風もなく。祠から排出されるものはなくなり、今や全てが天井に渦巻いている。
晶穂の頭に響いていたであろう何かの声が、今や全員に届いている。地鳴りのように、雷雨のように。轟き、響く。
ユキとユーギは、互いに手を握り合っていた。その傍に唯文も走り寄り、一緒に上を見る。
「何だ、あれは?」
「に……にい」
あれを。そう言うユキの指差す方を見た唯文は、クッと喉を鳴らした。
「ジェイス、さん……?」
アゴラとヒスキがいて、その先にジェイスが立っていた。しかし彼はこちらを見ようともしない。ただ茫然と、表情の抜け落ちた顔で天井を見上げている。
「……誰だ、わたし呼ぶのは」
小さな呟きが、その半開きの口から洩れる。
その時だ。
天井の黒い霧の塊のような渦が、止まる。動きを止めた。
そして。
一本の槍となって、真っ直ぐに落ちる。その先にいたのは、ジェイスだった。
「ジェイス!!!」
「ジェイスさんッ!!」
それに気付いた全員が叫び、ジェイスのもとへと走り出す。けれど、間に合うはずもなく。
白で塗りつぶされた空間に、黒い塊が生まれた。ジェイスを飲み込み、ズズズ……と不気味な音を立てて彼の周りにまとわりつくそれ。
克臣が飛び出し、ジェイスからそれを引き離そうと大剣を振る。けれど剣戟はいともたやすく跳ね返され、克臣はカウンターを食らって吹っ飛ばされた。壁に激突し、うめき声を上げる。
「克臣さん!」
「俺のことはいい! リン、それよりも……」
「……泣いてる」
「晶穂?」
地面に降ろされうずくまっていた晶穂が呟く。傍にリンが膝をつくと、しっかりと意志を持った瞳で見返した。頭痛は、と尋ねると首を横に振った。
「泣いて、嘆いて、絶望して……彼らはここにずっといたんだ」
「彼ら……?」
「うん。あれは……」
「! お兄ちゃん、危ない!」
ユキの警告とほぼ同時に、何かがリンと晶穂の傍で弾けた。二人は躱すことも出来ず、飛ばされてしまう。痛みを堪えて振り返れば、自分たちがいた場所がえぐられている。
「この魔力……うそ……」
「……」
晶穂が何かに気付いたらしい。リンもまた、信じられない思いで攻撃が繰り出された方向を見つめていた。
「嘘だろ。……嘘だって言ってくださいよ。―――ジェイスさんッ!」
リンたちに向かって放たれたのは、気の力で作られた矢。それを創り出せるのは、この場に一人しかいない。
しっかりとジェイスを見据える。彼の周りに立ち込めていた黒いものは、少しずつ薄くなっていた。まるで、ジェイスの中に吸収されていくように、一体化してしまうように。
黒いものが消える毎に、ジェイスの全身が
黄色かった瞳は、オレンジがかった黄金色に。漆黒だった髪は、美しい白銀の髪に。そしてその背中には、魔種ではあり得ない、純白の翼が広げられていた。
「ジェイス……さん」
ジェイスの一番近くにいたのは、唯文とユキ、ユーギだ。その中の誰かがぽつりと呟く。それに応じるように、ジェイスが右手を軽く振った。一切見もせずに。
「「「―――!」」」
音もなくその攻撃は三人に届き、吹き飛ばした。
「唯文兄!」
「ユキ!」
「ユーギ!」
三人がそれぞれ別の方向に飛ばされ、ある者は岩にぶつかり、ある者は壁に背中を打ち付け、ある者は克臣とぶつかり呻いた。
「いたた……。すみません、克臣さん」
「大丈夫かよ、唯文」
克臣とぶつかったというのは語弊があった。唯文は克臣の傍に壁に叩きつけられる直前に、助けられたのだ。
「おれよりも、二人を早く助けないと」
唯文は立ち上がりかけ、がくんと膝をつく。刀を支えにして立ち上がろうとするが、克臣に止められた。
「足を捻ったか? 見せてみろ」
「でもっ」
「ユキとユーギなら、リンと晶穂が助けに行ってる」
見れば、確かにユキのところにはリンが、ユーギのところには晶穂が向かってこちらに連れてくるところだった。
無事に合流し、全員で息をついた。
「とりあえず、あのバカ以外は生きてるな?」
「克臣さん……」
「言うな。バカも生きてるには違いないけどな。現状が異常事態だ」
克臣はユキの魔力を借りて手早く唯文の足首を手当てしつつ、そう言った。幸いユキとユーギは目立つ怪我をすることはなかったが、ユキの氷で背中を冷やす必要があった。
「さて、とだ」
克臣の呟きに頷き、リンはジェイスを見据えた。静かにその場に佇んでいるが、いつまた攻撃されるかわからない。何がジェイスをそうさせているのかわからない以上、下手に手出しをすることも出来ない。
いつの間にか、アゴラたちの姿がない。何処へ行ったかと見渡せば、洞窟の出口へ向かう一行の姿があった。
「これは、想定外でした」
最後に残って
「お前らのボスに伝えろ」
リンは怒気をはらんだ声で、静かに言った。
「―――必ず潰す、と」
「良いでしょう。この危機を乗り越えることが出来るのなら」
ヒスキは薄く微笑み、姿を消した。
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