第129話 月下
何処かでフクロウが鳴いている。
仲間たちが寝付いてしばらく経ち、リンはそっと寝床を抜けだした。
何処へ行ったのだろうか、とリンは廊下に出て、ギシギシと鳴る木の床を踏みしめる。宿の客は誰も起きていない。従業員の姿も見当たらなかった。
「あ――」
声を上げかけ、慌てて口をつぐむ。
廊下を少し先へ進むとガラス戸で囲まれた場所に出る。そこからは夜空に浮かぶ月が美しく見えた。日本のように不夜城の都市がない分、星も見える。
そんな中、一人佇む姿を見つけた。日本庭園にあるような池のほとりに、月を見上げる少女の影。暗がりにいるのに、リンには彼女の姿がはっきりと見えた。
「晶穂」
「リン……?」
ガラガラと音をたてる掃き出し窓を極力ゆっくりと開け、リンは庭に降りた。庭を見学する客も多いのだろう、幾つかのサンダルが置いてあった。
「どうしたんだ、こんな夜更けに?」
さっき時計を見たけど、夜中の十二時前だったぞ。リンがそう言うと、晶穂は眉を八の字にして笑った。
「うん、明日が本番ってわかってるんだけど。眠れなくて」
「……昼間の、か?」
「そう、だね」
池の表面に波紋が生じる。魚でもいるのだろうか。晶穂は視線を落として苦笑した。
「……わたしって、まだまだ弱いな、甘いなぁって改めて思ったんだ」
「甘い?」
「そう。甘ちゃん」
晶穂はリンに視線を合わせることなく、呟く。
「あの子に目撃情報を訊いた時、何で全く疑わなかったんだろう。あの商店主の人たちに襲われた時、何でもっとちゃんと受け答え出来なかったんだろう。春直を一人で不安にさせて……わたし何やってるんだろう」
月を見上げ、自嘲する。乾いた笑い声が、小さく消える。
「もう、春直に怖い思いをさせたくなかったのに。あはは。リンたちの役に立ちたかったのに。無理矢理ついてきて、この
「怖かったんだろうが」
「――ッ」
独白は、リンの胸に吸い込まれた。晶穂が硬直しているのに構わず、リンはその細くて温かい体を抱き締める。崩れてしまいそうな彼女を、ここに留まらせたくて、力を入れた。
「春直から、仔細は聞いた。お前が、その商店主の息子みたいなやつらに脅されて怯えてたってことも、全部」
それでも決して泣かなかったと、聞いている。自分の方が泣きそうになったと春直は言った。晶穂を失うのが怖かったと。
「……」
晶穂は何も言わないが、小刻みに肩を震わしている。懸命に落ち着こうとしているのだとわかる。時折聞こえる深呼吸の音は、我慢しているサインだ。
リンは「泣くな」と言うことも出来た。年少組に示しがつかないだろう、と叱咤する選択肢もあったのかもしれない。
けれど、リンの脳内にはそれらは存在しなかった。
「俺の前でだけは、我慢するな」
ぴくり、と腕の中の少女が震える。
もともと泣き虫なのだ、といつか言っていた。確かに泣く。けれどそれは、悪いことではないだろう。
自分の保身のために泣く涙でなければ、自分の感情が決壊して溢れる涙であるならば、もしくは誰かを思っての涙なら、それは我慢するだけでよいのだろうか。我慢が必要な場合も多い、それは間違いない。
しかし、少なくとも自分の前でだけは、それを我慢しないでいてほしい。
ここには、自分たち二人以外、誰もいない。
「……泣いちまえ」
「――っく。リン、怖かったよぉ」
ぎゅっとリンの寝間着を握り締め、晶穂は声を控えて泣き出した。頬を伝う透明な涙は、静かにリンの服を濡らしていく。それでも、構わない。
敵にしか見えなかった男たちに囲まれ、髪をつかまれ引っ張られ、最後には若い男たちに脅される。それらがどれだけ怖かったのか、経験していないリンに全てはわからない。
命の危険を伴わないとはいえ、そのまま真犯人として扱われれば、晶穂とリンたちが再会することもままならなかっただろう。それが恐ろしい。
リンは目を閉じて、月から隠すように晶穂を抱き締めた。
「ありがとう、リン」
泣き始めてからどれくらいの時間が経っただろうか。夜空の月が少し動いた気がする。
晶穂はぐずっと鼻をすすりつつも、仄かに微笑んだ。もう大丈夫だと笑う彼女を腕から解放し、リンは「そうか」と微笑した。
「俺が勝手にしたことだ。……それに、悔しかっただけだから気にするな」
「ん?」
何が悔しかったのか。それが思い当たらず首を傾げる晶穂に、リンは少し頬を染めて明後日の方向を見た。
「……エルクさんが、その場に来てくれたんだろう?」
「え、うん」
目を瞬かせる晶穂は、リンを見上げる。また少し、リンの背が伸びたような気がする。月に照らされたリンの横顔は、影が出来て表情はよくわからない。
「俺が、そこにいたかった。……それだけだ」
「……うん」
リンの蚊の鳴くより小さな声が、晶穂の心に突き刺さる。そして静寂に満ちていたはずの夜闇を、五月蠅いほどの心音が支配する。
それはリンも同じであり、思わず俯いた晶穂に首まで真っ赤に染まった自分を見られずにほっとしていた。
互いの心臓の音が相手に聞こえていないかという恥ずかしさと恐れの間のような感情が、二人の時間を止めていた。
落ち着くことも出来ず、晶穂は思わずそっとリンの頬に触れた。びくりとするリンを見上げ、晶穂は彼のこめかみの傍を撫でた。そこには、ガイとの戦闘で受けた傷があった。
「……怪我、痛い?」
「痛みは引いてる。これでも魔種だからな」
それよりも、とリンは晶穂の右腕に触れた。「うっ」と小さく呻く彼女の腕には、昼間に引きずられた時にできた擦り傷がある。それは冷やして消毒してはあったが、まだじんじんと痛む。
痛みを堪える晶穂に、リンは「無理するなよ」と笑った。
「晶穂は、魔種ではない以前に、俺の仲間であり……大切な、人なんだから」
「それは、わたしも同じだよ。……大切だから、怪我すると心配なんだ」
「そう、だな。だけど……」
リンは晶穂の頭を優しく撫でた。
「まだ、何も終わってない。ジェイスさんを探し出して、銀の華を守らないと、な」
「うん。必ず、みんなで帰ろう」
涙は既に流れてはいない。連れだって室内に戻った二人の後、静かに月が庭を照らしていた。
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