第120話 ソイ湖の夜

 アラストを出て一日が過ぎんとしていた。ソイ湖の畔にシンが降り立ったのは、夜の十時を過ぎた時だ。朝から真っ直ぐ東を目指したが、昼間の太陽は季節柄熱い。何度か休憩を挟み、夕方になってから本格的に空の旅を開始したのだった。

 湖の水は月に照らされてキラキラと輝いている。そこに水紋が広がった。シンが口をつけてぐびぐびと飲んでいるからだ。

「ごめんな、シン。助かった」

「ううん、こちらこそだよ。リンたちを乗せて飛ぶの久し振りで嬉しかった!」

 にこにこと大きな口を開いて笑うシンとはここでお別れだ。彼の魔力が不完全なわけではない。けれど、今回はリンたちの運び役だ。帰り路、再び世話になることになるだろう。

「じゃあねぇ!」

 大きな姿のまま、シンが飛び立つ。夜中の旅では迷わないかと克臣が尋ねると、

「大丈夫! 月と星が明るいから」

「そうか。じゃあ、みんなによろしくな」

「はーい」

 ばいばい、と手を振って、シンは夜の闇の中に消えていった。昼間のような暑さはないため、朝にはリドアスに到着するだろう。

 シンを見送ってふと目をやると、年少組がこくりこくりと舟を漕いでいた。少し年長の唯文も慣れない空の旅で疲れたのか、必死に眠気と戦っているのが分かる。

 リンは苦笑しつつ、四人を叱咤した。

「みんな、もう少し頑張れ。夕方に食事はしたからいいけど、寝袋とテントを用意しないといけないからな」

「あ、おれ手伝います」

「さんきゅ、唯文。……じゃあ、これをそっちに」

「わたしも。……これはあっちかな」

「俺も。なんだ、ユーギたち寝ちまってるぞ」

 克臣が笑いを含んで言った。その方を三人が見ると。ユキ・ユーギ・春直が身を寄せ合って木の根元で眠りこけていた。リンは克臣と協力し、テントの中に置いた寝袋の中に年少組を運んだ。少々乱暴に運んだものの三人とも起きることはなく、それぞれがぐっすりと大人しく寝袋に収まった。

 火を起こして車座になった四人は、明日の道筋などの確認を行っていた。しかし時々かくんと眠りかける唯文に気付いた晶穂が隣の彼の肩を支えた。

「唯文、眠そうだね」

「え……あ、大丈夫。まだ起きてますし、聞いて……ふあぁ」

「無理しない。まだ十六歳なんだから、成長期は寝るものだよ」

「……俺らと二、三歳しか変わらんがな」

 唯文の背を押してテントに誘う晶穂の背を見送りつつ、リンが笑った。

「まあ、あいつにとっては初めての長距離移動だろ。そりゃ疲れるさ」

「ええ。かなり気負ってる雰囲気でしたし、朝まではぐっすり寝かせないとですね」

「唯文、寝かせてきたよ」

「ああ」

 リンの隣に腰を下ろした晶穂が微笑む。テントは三つあるが、一番大きなものは年少組用だ。その他の二つをリンと克臣、晶穂がそれぞれに使用する。

 人が減ってより静かになった火の傍で、三人は寝ているユキたちを起こさないように声のトーンを落として話をした。

「明日は、太陽が昇ったらこの先にあるリューフラに向かいましょう」

「そこで情報収集と砂漠を渡るための装備の用意だな」

「ええ。俺も流石にまだ砂漠に行ったことがないので」

「わたしも……」

「晶穂に経験があったら逆に驚くな。まあ事前にテッカさんに聞いたところによると、防塵や防砂はしておいた方が良いとさ。……ジェイスがいれば、空気の壁でも作れたんだがな」

 克臣のその言葉は、場の空気を沈めた。誰もがジェイスの安否を心配している。行方知れずになって日は浅いが、彼の不在はリン達にとって大打撃なのだ。精神的にも戦力的にも。

 銀の華をトレジャーハンターから守り手に入れる目的以上に、ジェイスの無事を確かめたかった。

「……大丈夫。ジェイスさんは強い人です。絶対無事です」

 空気を浮上させようと、晶穂は柔らかく微笑んだ。その意図が分かり、リンと克臣はそれぞれ頷いた。

 それから何気ない話をしばらくして、克臣は体を伸ばした。

「うーん、俺は寝るわ。二人は?」

「俺はもう少し火の番をしてます」

「わたしも……もう少し起きてます」

「そか、じゃあおやすみ。……ああ、リン。夏だから火は消えたらそのままでいいぞ。野生動物も見かけないしな」

「わかりました。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 克臣が自分用のテントに入ってしまうと、リンと晶穂の間には何とも言えない空気が流れた。二人の顔はたき火に照らされている。

「ジェイスさんに、早く追い付かないとな」

「うん、早く見つけなきゃね」

「……」

「……」

 たき火にはまだちろちろと小さな炎を灯している。しかし最初の大きなものに比べれば、辺りを照らす力は小さい。リンは魔力で炎に力を与えようとしたが、不意にやめた。

 晶穂が小首を傾げると、リンは顔を背けて呟いた。

「……こっち見んな」

「もしかして、照れて……?」

「違う」

 速攻で否定したが、リンの心臓は克臣がいなくなった時から早鐘を打ち始めている。自分の顔が熱い。それを晶穂に見られるのはなんだか癪だった。

 それは晶穂とて同じだ。さっきから頬も耳も熱い。手が強張って、うまく動かせない。

 二人の間の距離は三十センチもないくらいだ。少し手を伸ばせば触れられる。

 ふ、と炎が限界を迎えた。真っ暗にはなったが、天上の星々や月が二人を照らしてくれている。それでも、夜の闇は周りに満ちていた。

「わ」

 突然、晶穂の腕が引かれた。晶穂は抵抗する暇もなく、力の方向に従って引かれた方に倒れ込んだ。

 思わず目を瞑っていた晶穂は、とさ、と自分を受け止めた温かいものに包まれて目を開けた。

「……えっ」

「…………わるい。手が勝手に動いた」

 晶穂の驚愕の声に、リンの戸惑いを含む声が被さる。晶穂は今、リンに抱き留められていた。女友達とふざけ合う時とは感触が違う。硬くて大きい。

 顔だけでなく体中が真っ赤に染まる。晶穂は離れようとリンの胸に手をつく。だがそれより早くリンが動いた。晶穂の背中に手がまわされ、ぎゅっと抱きしめられる。

「ひあっ……」

「……」

 奇声めいた悲鳴を上げかけ、晶穂は咄嗟に口をつぐんだ。大声を出せば、寝入っているはずの仲間たちを起こしてしまいかねない。皆が起きてしまえば、この状況はなくなってしまう。それを惜しく思う自分に戸惑いつつも、晶穂は黙ってリンに身をゆだねた。リンもただ黙って晶穂を抱きしめている。

 沈黙が支配するはずなのだが、自分の心臓か相手のものかわからないほどに高鳴り疾走している。その心音が五月蠅いほどだ。

 二人は密着したまま、長いような短いような時間を過ごした。

 夜風が頬を撫でた。

 リンはその冷ややかな感触で我に返り、「うわあぁっ」と晶穂を自分から引き離した。

「すっ……すまない。無意識とはいえ。い、いきなりだき……っ」

「だ、大丈夫だから! ―――そ、それに、わたしは嬉しかったから……って何言ってるの!?」

 お互いにしどろもどろになって、自分でも何か分からない言葉を口走る。それが更に自分自身の羞恥心をあおいだ。

 ひとしきり自分の発言に翻弄され、落ち着いたのは数分後だった。

 幾分冷静さを取り戻したリンは、晶穂の顔を直視せずに晶穂に就寝を促した。

「……明日も早い。きっと長い一日になる。もう寝よう」

「そうだね……おやすみなさい、リン」

 晶穂も治まりきらない恥ずかしさを押し込め、さっと立ち上がって踵を返した。テントに入る直前、後ろから声が飛んだ。穏やかで、包み込まれるような声音だ。

「色々言ったけど、おまえが来てくれてよかったよ。本当は、ジェイスさんがいなくなって、不安でたまらなかったんだ。……おやすみ」

「……っ」

 晶穂は何も返答出来ず、そのまま逃げる様にテントに入って寝袋に突っ伏した。外で人が動く衣擦れの音がした。きっとリンも自分のテントに入ったのだろう。晶穂は火照った顔を枕に埋め、必死に眠ろうともがいていた。

 リンがテントの幕を上げると、克臣が寝袋に入って眠っていた。リンはそっと彼を起こさないように足音を忍ばせて隣の寝袋に入る。服は着替えた方が寝やすいのだろうが、そんな荷物の余裕などなかった。

 リンは横になってほっと息をついた。先程の醜態を思い出して赤面するが、ランプもないテントの中ではそれに気付く者もいない。――そう思っていた。

「……晶穂に手ぇ出してきたのか?」

「っ……克臣さん、起きてたんですか? それから誤解を招くようなこと言わないで下さい。出してない、し」

 克臣のいる方とは反対を向いてリンは反論した。そうしなければ目の良い克臣に自分の顔が見えてしまう危険性があった。何故か夜目も利くのだ、克臣は。

 くっくと笑う克臣の声が聞こえていたが、リンは敢えて聞こえないふりをした。明日が早いのは本当だ。

 五分ほどして、リンの隣からは寝息が聞こえてきた。それからしばらくの間、リンは意思に反して眠ることが出来なかった。―――晶穂の温もりと柔らかさが何度もフラッシュバックしてしまい、懊悩していたためだ。

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