第117話 失踪
翌日の早朝。ジェイスの具合を見ようと、リンは医務室を訪れた。
医者である貫はいない。今日はここへ出勤する日ではない。その代わり、昨日の日誌が机の上に置かれていた。
朝早くの医務室は静かだ。大抵の怪我人は、ここのベッドを使うことなく手当の後は自室に戻る。ここのベッドを使うのは、急患や大怪我をした人くらいだ。しかし、今は違う。奥のベッドでジェイスが寝ているはずだ。貫は昨夜の時点でジェイスをここで休ませた方が良いとアドバイスを残していった。それを受け、自室に戻ろうとするジェイスを押し留めたのはリンだ。
だが、寝息が聞こえない。身じろきをする音もない。ついでに言えば、呼吸音もない。
「まさかっ」
リンは走った。ジェイスがいるはずのベッドの前で急停止し、目を見張る。
「……いない」
さっと血の気が引いた。きちんと整えられたベッドには、人が寝ていたような痕跡がない。
風を感じて振り返ると、数センチだけ開いた窓が目に入った。ジェイスがここを抜け出す時、閉めて行ったのだろう。それが不完全だったのだ。
「っそ。……ジェイスさん!」
思わず叫び、窓のサッシを飛び越えたリンは周りを見渡した。
しかし、案の定、ジェイスの姿はない。
朝の散策をしていたらしい春直の姿を見つけ、リンは声をかける。
「春直、ジェイスさん見なかったか?」
「い、いえ。見ませんでした……」
「そうか……」
春直の声が必要以上に震えている気がした。しかしそれは自分の声が怯えさせてしまったのだろうと早合点し、リンはそれ以上の追及はせずに空を仰いだ。
当てもなく翼を広げ飛び立とうとしたリンの背後で、眠たげな声がした。
「……リン? 朝から出るんだろうが。何やって」
「克臣さんっ!」
「うわっ………。何が、あった?」
窓から飛び込み目の前に着地したリンに目を丸くした後、克臣はただ事ではない状況を把握し、静かに問いかけた。リンは、必要以上に動く心臓の音を五月蠅く感じつつも告げた。呆然と。朝の温かな光など、全く感じられない。
「―――ジェイスさんが、いません」
ジェイスがいない。
リンからそう聞いた克臣は、目にも留まらぬ速さでジェイスの部屋に行き、扉を蹴り開けた。そこに部屋の持ち主がいないと見るや、玄関ホールに走り、扉を開け放つ。
ドタドタと大きな音がリドアス中に響き渡り、文里や息子の唯文、サラやユーギらが顔を出す。リンも克臣を追って玄関に走って来た。その傍には晶穂がいて、ぎゅっとリンのシャツの裾を握っている。
ああ、無意識なんだろうなあ。と後輩の恋模様をのんびり見つめるような余裕は、克臣にはなかった。
「……あの野郎」
「おい、克臣。どうしたってんだ?」
文里が心配そうに克臣に問いかけた。克臣は振り返りざま、彼に食って掛かる。
「文里さん、ジェイスを……あのバカを見ませんでしたか?」
「ジェイス? あいつは今負傷して医務室だろう……」
「……いないんです。何処にも。消えやがった」
克臣は拳を握り締め、そう吐き出した。腕の包帯からは血がにじんでいる。傷が開きかけているようだ。
それに構わず、克臣は風のような勢いでリンを見つけ、叫んだ。
「リン、あのバカを探すぞ。手伝え」
「はいっ」
幻を探しに行く前に、近しき無二の仲間を探し出す方が先決だ。リンとジェイスはそれぞれが思いつく場所に足を運び、ジェイスの姿を探した。晶穂やユーギ、他の仲間たちも歩き回る。
アラストの市場、住宅街、公園、海。
一人、春直は、何か言いたげな瞳でその様子をじっと見つめていた。
しかし、昼になってもジェイスの姿を捕らえることは出来なかった。
「あの野郎、何処行きやがった。ざけんじゃねえぞ、薄笑い野郎があぁぁ」
食堂でテーブルに突っ伏し、克臣が暴言を大声で吐く。その向かい側で苦笑いしつつも不安を目に宿しているリンと晶穂は、まだ聞き込みから帰って来ないユーギとユキ、唯文を待っていた。
時刻は午後一時過ぎ。腹が減ってはなんとやら、と軽めの昼食を食べて片づけを終えたところだ。
「落ち着いてください、克臣さん」
「そうです。叫んでも見つからないんですから」
「リンも晶穂もそう言うけどな。これが叫ばずにいられるか? ……親友だと思ってたのは俺だけかよ」
最後の呟きは寂しげに聞こえ、リンと晶穂はそれ以上突っ込むことはやめた。
克臣を元気付けようとリンが「もう少ししたらユキたちが帰って来ますから」と言いかけた時、
「……ちょっと、いいですか?」
「あれ、春直。お前、ユキたちと一緒だったんじゃないのか?」
おずおずと食堂の入口から顔を出したのは、年少組と共に町へ聞き込みに行った筈の春直だった。何か言いたげに口をもごもごさせる彼に、リンは早朝出会った時の不審さを思い出して春直の前に膝を折った。目線の高さを合わせる。
「春直。何か、言いたいことがあったんじゃないか?」
「……はい」
「何でもいい。俺に言いたいことがあるなら、ゆっくりで良いから教えてくれ」
言い含めるように、諭すように語りかける。春直は最初こそ目を泳がせていたが、数十秒経った頃、突然頭を下げた。
「え……はる、なお?」
「ごめんなさい、団長。……ぼく、ジェイスさんに会いました」
「本当かっ!」
少し離れた所からがばりと上半身を起こし、克臣が春直に詰め寄りかける。しかし寸でのところで身を引いた。春直が泣きそうだったからだ。
丁度その時、ユキたちが戻って来た。食堂に入る直前、異様な雰囲気を感じて顔を見合わせている。
「ごめんなさい……早く、言えばよかった」
「……何で、しばらく黙ってたんだ?」
口調を柔らかくするよう気を付けて尋ねたリンに、春直はしゃくり上げそうになるのを懸命に堪えつつ言った。
「……ジェイスさんに、頼まれたんです。……『このことはどうか、黙ってて』って」
「『このこと』……? いなくなることを、か?」
克臣が中腰になって問うと、春直は首を横に振った。そして、違う、と呟く。
「違うんです。……自分の翼が白いことを、です」
「白い……」
目を見張るリンと克臣に、とうとう泣き出してしまった春直を抱き留めた晶穂が疑問を投げかける。
「え……? 魔種の翼って、白もあるんだ」
「いや」
リンは軽く頭を横に振ると、
「……魔種の翼は、漆黒のみだ」
眉間にしわを寄せ、そう呟いた。
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