第113話 互いのわがまま

 ソディールでも新学期が始まり、午前中のリドアスの人気は少ない。克臣は仕事でユーギたちも学校だからだ。

 ジェイスは近隣の誰かに会いに行っているらしい。彼は人柄の良さから相談を受けることが多い。また他の大人たちもそれぞれ仕事や用事で留守の者が多かった。

 晶穂は玄関を抜け、そのまま居間に向かった。履修登録をするためだけに大学に行ったため、手持ちの荷物は布製鞄一つ。中身も筆記用具と履修登録のための冊子のみだ。

 リドアスの居間は、皆が気軽に集まれるようにと作られた部屋だが、その役割を玄関ホールや食堂も担ってしまっているため、専ら簡単なミーティングを行う際に使われることが多い。大きなテーブルがあり、作業をするのにも適当なため、学校行事のポスター作りや工作課題のために使われることもある。場所はリドアスの東側の奥だ。

 出入りを自由にするためドアはない。晶穂は何気なくここを訪れ、そこにいる誰かと話すのが好きだ。しかし今日は誰もいない。大概主婦層が和気あいあいと話しているのだが。

「マラヤさんも郁乃さんも、今日はいないんだ」

 ちなみに、マラヤは猫人であるジースの妻で、郁乃は犬人である文里の妻だ。それぞれ、ライナと唯文という子供がいる母親でもある。

 彼女らの井戸端会議を聞いているだけでも面白いのだ。

 残念に思いながら椅子に座った晶穂は、ふとテーブルの上にホッチキスで止められた紙の束があることに気付いた。何気なく手に取ったそれをパラパラとめくり、ある言葉を見つけて目を見張る。

「……『トレジャーハンターは銀の華を狙っている』?」

 なに、これ。

 銀の華、とは。この場所のことか。それとも、願いを叶えるという幻の銀色の花のことか。どちらにしろ、不穏な空気がまとわりつく。

 書類になっていることから考えて、これは遠方調査員への依頼書だ。テッカやサディアに渡されているのだろう。彼らは滅多にここへ来ることはないが、独自の調査ルートを持っている。

 書類を斜め読みしていると、後半の紙には遠方調査員たちの報告書があった。

 花を狙うトレジャーハンター一味の頭の名はグーリス。またの名を「野獣」というらしいこと。グーリスは人間で、何人もの手下を抱える男だということ。これまで、手段を選ばずに目的の宝を得てきたということなど、幾つもの証言が記載されている。

 嫌な予感を覚えて、晶穂はきゅっと冊子を胸に抱き締めた。

「……誰かいるのか?」

「!」

 勢いよく晶穂が振り返ると、部屋の入口に困惑顔のリンが立っていた。リンは晶穂と同じように履修登録をしに大学へ行っていたはずだ。

「お前、何て顔してんだ」

「え……?」

 今度は晶穂が困惑する番だった。「何て顔」とはどんな顔だ。

 そこで初めて、自分が泣いていることに気付く。

 リンの視線が晶穂の持つ書類へと向く。一瞬顔をしかめたリンは、すぐに何かを諦めたような顔をした。

「それ、読んだのか」

 疑問形ではない。確かめるような声調だ。晶穂が頷くと、

「……読んだんなら、俺がこれからしようとしてることは何となく分かるよな」

「うん。……戦いに行く、んだよね」

「ああ。あいつらに、花まで手に入れさせるわけにはいかない」

「『あいつら』って。もしかして、会ったの? 怪我は!」

 晶穂が慌ててリンに近付くと、リンは苦笑いで応えた。

「お前、心配するのはそっちかよ」

「当たり前だよ。……リンに、怪我して欲しくない」

 ぎゅっと両手を組んで握り締める晶穂に、リンは動揺した。涙ぐむ姿が心を揺らす。手を伸ばしそうになって、思い留まった。

 自分は、彼女を置いて行くつもりなのだ。これまでとは少し勝手が違うのだ。

 狩人との戦いでは、晶穂には自分の両親の死の真実を知りたいという目的があった。

 魔女との戦いでは、晶穂は魔女に取り込まれ、聖血の矛を目覚めさせた。

 古来種との戦いでは、晶穂はツユに呼ばれた。

 しかし今回、晶穂は相手に事と次第によっては奪われる可能性がある。それを未然に防がなくてはならない。

 彼女が承知しないであろうことは明らかなのだ。今も、リンを見上げている。

 リンは乱れた心を無理矢理押し込め、晶穂の頭を撫でてやった。

「……大丈夫。何があっても必ず戻って来る。大学の講義もあるしな」

 花までも、渡すわけにはいかない。

 お前を渡すことは絶対にしない。

「大学の講義、単位落としたらダメだから……」

 泣き顔に無理に笑みを乗せて、晶穂は頷いた。

 リンは首肯し、トレジャーハンターと名のる男達と出会ったことを白状した。彼らに挑発されたことまでは喋り、晶穂が狙われていることは伏せた。

「ベタな思考だと思うよ。何でも願いが叶う花を手に入れて、世界を思い通りにするなんてさ。……でも、それを実行させるわけにはいかない。それが成ってしまえばどうなるかなんて、想像もつかないからな」

「……わかった。勿論、わたしもついてくから」

「…………」

「リン?」

 自分の主張が受け入れられると思っていた晶穂は、沈黙してしまったリンの横顔を不思議そうに眺めた。

 リンは一つ深呼吸をすると、改めて晶穂を正面から見つめた。その真摯な視線に、晶穂は目を奪われた。

「………ごめん、晶穂。連れてはいけない」

「なに、を……」

 晶穂は目を丸くし、「わたしっ」と眉を八の字に寄せた。

「わたし、戦えるよ。聖血の矛は使わなくても、鍛錬してきた。これまでも色々あったけど、一緒に行ったよね! ……なんで」

「それを、教えることは出来ない」

 お前が、グーリスに獲物として狙われているなんて。言えるわけがない。

 リンは心中を押し殺すように眉間にしわを寄せ、晶穂から視線を逸らした。

 口を閉ざしてしまったリンを前に、晶穂は呆然と立ち尽くした。頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。

 そうなってしまって数十秒。

 晶穂は、得体のしれない感情がふつふつとわいてくるのを感じ始めた。

(どうして何も言ってくれない? わたしだって、役に立ちたい)

「うわっ」

 リンが目を見開いている。何故かと思い自身を見て、晶穂は自分の手に矛が握られているのに気付いた。無意識のうちに召喚していたらしい。

 わいて来ていた感情は、怒りだ。不安だ。寂しさだ。

 リンの傍を離れたくない。子供の我儘のような感情が、晶穂の中で渦巻く。

「……!」

 晶穂は無言で矛を振り下ろした。それをリンが軽々と避ける。

「ちょっ……、待て、晶穂!」

「待たないっ。リンが……リンがいいって言うまではっ!」

 ザッ。風を切って矛の刃が落とされる。晶穂は床のカーペットに穴を開けないように寸止めにする。

リンはただ避けるだけだ。横っ飛びをして、床の上を転がって、晶穂を止めようとはしない。それがまた腹立たしくて、晶穂は涙目になりながら矛を振るった。

 その永遠と続くかに思われた稚拙な争いは、慌てふためいた声によって止められた。

「何やってるんですかぁ!」

「え……晶穂さんっ?」

 学校指定のリュックサックを背負ったまま、跳び込んで来たのはユーギと春直だ。ユーギは膝をついていたリンの前に立ち塞がり、春直が晶穂の腰にすがった。

「え……。晶穂さん、なんで泣いてるの……?」

 びっくりした声で、ユーギが呟く。彼の言葉に春直も言葉を失った。リンは目を逸らしたまま晶穂を見上げようとはしない。

「泣いてなんて……」

 否定しようとした晶穂は、自分の声が震えていることに初めて気づいた。そして気が付いた瞬間、目尻から大粒の涙が零れ落ちる。女性は感情が高ぶると涙が出易いのだと言うが、本当らしい。

 腰に両手を当てたユーギが、呆れ吐き出すように言った。

「もうっ。ちわげんかしないで下さい」

「ち……!」

「痴話喧嘩じゃないっ」

 晶穂とリンは赤面し、それぞれ顔の前で手を大きく振った。

 春直はその様子を見ながら、不思議そうな顔で呟いた。

「……じゃあ、何で武器なんて晶穂さんが振り回してたんですか?」

 至極当然の問いだ。

 晶穂が「それは……」と言いかけるのを片手で制し、リンが立ち上がりつつ答える。

「俺が、晶穂を今回の戦いには連れて行けないと言ったからだ」

 ユーギと春直の目には、何か深いわけがあるのだと察せられた。リンは晶穂を心から大切に想っている。それは、年少者でも分かるほど明白だった。二人が晶穂を顧みると、彼女は間の悪そうな顔をして目を伏せた。

「……実力行使すれば、折れてくれるかと。……困らせて、ごめんなさい。我儘わがまま言って、ごめんなさい」

「俺も、何も説明せずに悪かった」

 晶穂が着実に力をつけていることは、誰よりも自分がよく分かっているのに。懸命に矛と向き合う姿を誰よりも近くでみていたのは、自分であるのに。

 リンは首を横に振り、晶穂の前に立った。

「……お前を軽視してるわけじゃない。むしろ、その逆だ」

「逆?」

 晶穂に首を傾げられ、リンは仄かに笑った。そしてユーギや春直に聞かれないようにと小声で付け足した。その台詞は、晶穂を真っ赤にさせた。

「……お前が大切だから。危険な場所に、危険な奴の前に、行かせたくないだけだ」

 だけど。

「―――それは、俺の我儘だな」

 溜め息をつき、リンは「負けた」と笑った。諦めたというように。

「……行くぞ、晶穂」

「……え?」

 思考の追い付かない晶穂がきょとんと目を瞬かせると、リンはくるりと背中を見せた。

「行くんだろ、俺たちと。……ユーギと春直も来い。ユキもいるなら連れて来てくれ」

「うんっ」

 泣き顔に笑みを浮かべてリンの背を追う晶穂の後ろ姿を見、ユーギと春直は顔を見合わせてくすりと笑い合った。

 リンは聞こえないように声のトーンを落としたつもりだろうが、甘い。狼人と猫人である少年二人は、魔種や人間の何倍も聴覚が優れている。だから、リンが赤面しながら放った告白は、初めから終わりまで二人の耳に入っていたのだ。

 互いを想い合う二人のことが、ユーギも春直も好きだ。だから、このまま、と願う。

 そのために出来ることは、やりたいのだ。

 ユーギと春直は、先に自室に戻っているはずのユキを呼び出すために廊下へ出て行った。

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