第111話 決意の朝
数時間前のことだ。
リンが目を覚ましたのは夜明け前。しかも夜中と言っても過言ではない午前三時。パン屋やケーキ屋、豆腐屋などはもう動き出している時間かもしれないが、一般市民には早過ぎる朝だ。
昨晩遅くまで起きていたのだからまだ睡眠をとる必要があるかもしれないが、はっきりと覚醒してしまった。まるで、何かの前触れを感じたように。
「……眠くはない。早いけど、剣でも振ってりゃ朝になんだろ」
リンは水をコップ一杯だけ喉に流し込み、寝間着を着替えた。
寝静まったリドアス内を歩き、中庭に通じる扉を開ける。
「……さむっ」
夜風が吹き付けてきた。草が揺れ、木々も体を揺らす。
リンは深呼吸を一つして、手にしていた剣を構えた。
目を閉じると、音は消える。
集中を高め、魔力を体の中心から腕、両手へと移動させ、剣へと乗り移らせる。
淡い翠の光を宿した刃を感じ取り、リンは剣を一閃させた。
もう一度、そしてもう一度。踊るように、ステップを踏むように剣舞を繰り返す。技名を叫ぶのは気恥ずかしくて一度もしたことがない。心で呟けば十分だ。
更にもう一度剣で風を薙ぎ払おうとした瞬間、それを受け止めるものがあった。
「!?」
「やれやれ。都会の子どもは野獣よりも乱暴だな」
月と星空が美しく夜にしては明るい。しかしリンの目の前に立つ誰かの輪郭は影で覆われている。ちりり、と悪意が肌を刺した。
リンは即刻飛び退き、剣を構え直した。アゴラが現れた時と状況が似ているな、と頭の隅で考えながら誰何する。
「……誰だ、お前。どうやってここに侵入した?」
「大人に口を利く態度ではないが……まあ、不問としよう」
ククッと喉を鳴らしたその人は、目をすがめてリンを舐めるように見た。
「オレの名はグーリス。これくらいのセキュリティー、オレたちトレジャーハンターには屁でもねえ。……宣戦布告に来たぜ、銀の華団長・氷山リン」
「宣戦布告、だと?」
「そうだ。前にオレの部下がここに来たはずだ」
「アゴラ、か」
「そうだ、物覚えが良いな。そいつも言っただろ、銀の華を寄越せってな」
「寄越せとまでは言っていない……が、お前たちの狙いが銀の華であることは承知だ」
リンはグーリスと名のった男の隙を探していた。しかし、何処にもない。恰幅が良く横柄で隙だらけにも見えるが、攻撃を仕掛けた瞬間にこちらがやられる。あの大きな体は脂肪だけではなく、筋肉によっても作られているのだろう。
そして加えて、敵の助力方の気配もあった。あちらは二人でこちらは一人。出来ることは限られる。
グーリスは下手に動けないリンを見下ろし、ニヤリと歯を見せた。歯が黄色い。
「知っているなら話は早い。オレは、銀の華を手に入れる。そして、ソディールとそれがあるこの世界、ひいては地球という異世界までもをオレの管轄下に置く。……全てをオレの玩具にするのだ」
「……壮大な寝言だな」
「何とでも言え。銀の華を手にすれば、全ては自在だ。お前の泣き言くらいは聞いてやるかもしれんがな」
そう宣言し、グーリスはその太い指で魔法陣を描いた。人一人分ほどの大きさのそれは中央に穴を生じさせる。そこに手をかけ、グーリスは笑った。人を見下す笑みだ。
「お前らは本物には辿り着かないということだ。近いうちに世界を手に入れ、お前が持つ最も大切なやつを奪う。……やつの魔力は欲しい。オレの支配を、力を、より盤石なものとする助力となる」
その言葉で『お前が持つ最も大切なやつ』の指すものに気付いたリンは、剣の切っ先に魔力を集中させた。怒りの声と共にグーリスめがけて振り下ろす。
「てっめぇ、晶穂を……。銀の華もあいつも、絶対にお前などには渡さないっ!」
楽しみにしている。そう言い置いて、グーリスは穴の中に消えた。魔法陣を出入り口としていたのなら、魔力遮断でも行わない限り出入りは自由だ。しかし遮断すれば魔力を持つ者は全て弾き出される。痛い所を突かれたようだ。
リンの放った技は対象物に届かずに霧散した。
肩で息をするリンは「くそっ」と短く言い捨てると、剣を体に収めた。魔力の残滓を辿ろうとも考えたが、それは見事に残っていない。
落ち着こうと、リンはベンチに体を預けた。
伝説を何処まで信じられるかには疑問があるが、それを全て真実として信じ、悪用しようと画策するグーリス。剣も何も使っていないのにもかかわらず、リンは退けることが出来なかった。彼の実力は全く見えない。
けれど、彼を追い、倒さなければリンの大切なものは全て奪われるだろう。間違えなく、晶穂は確実に。銀の華を彼らが手に入れれば、この世界すらも。
リンはぎりっと奥歯を噛み締め、天を仰いだ。知らないうちに拳も握り締める。
「……守る、必ず」
それから少し剣の鍛錬をし、怒りを鎮静化させた頃に眠気が襲ってきた。
晶穂がリンを見つけたのは、それから一時間後のことである。
リンは朝食後、ジェイスと克臣を自室に招いた。何か事が起こった時や起こる前、リンは必ず兄貴分である二人に相談する。銀の華の参謀とも言うべき彼らは、本当の兄のように頼れる存在だ。
「……で、また来たのか。例の仲間が」
壁に背を預けて腕を組む克臣が言った。今日は平日で仕事があるはずなのだが、まだ出勤しなくてもいい時間だからとここにいる。確かに就業時間にさえ間に合うのであれば、扉をつなげれば会社の近くに飛べる。
「しかもなかなか怖いことを言い放って帰るなんてね」
黄金色の切れ目を更に細め、ジェイスは嘆息した。日本に来れば欧米人やハーフのようだと人目を集める彼は、その柔らかな顔に似合わず辛辣な一面を持つ。
「でも、わたしたちに喧嘩を売る時点で勝敗は決してるけどね」
「酷いな、ジェイス。まだ何を仕掛けられるかも分かっちゃいないんだぜ」
面白そうに笑う克臣に、ジェイスは首をすくめてみせた。
「ああ、そうだね。……けど、賭けるものが悪い。だろ、リン」
「……はい。何があろうと、絶対に守り抜きます」
もう、大切な誰かが何かに操られて苦しむ様は見たくない。
幼い日に父母を殺され、弟を
リンは拳を握り締め、正面を見据えた。
「手に入れます。銀の華は、俺たちが」
リンの宣言に、年長者二人は同時に頷いた。
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