第110話 女子トーク

 昨晩は楽しい夜だった。

 晶穂は覚醒し切っていない頭でそれだけ思った。外はまだ日が昇り切ってはいない。夜と朝の境界線だ。

 昨夜、キャンプから戻って来た仲間たちと食卓を囲むために、晶穂は腕によりをかけて料理を作った。エルハとの休暇から戻って来たサラや他の女性たちにも手伝ってもらいながらではあったが。

 ハンバーグに海鮮丼、野菜スープにケーキのようなサラダ。そして唐揚げに焼き魚。二十人を超える人数の食事は大変だ。いつも作ってくれる仲間たちに、晶穂は改めて感謝した。

 わいわいと賑やかな食事は久し振りな気がした。とは言っても五日ほどしか経ってはいない。その間、リンと二人っきりで一日一日を過ごしていたのだ。

 昼間は自室に籠っていたリンも、ジェイスや克臣、ユキらと共に少し離れた所で食事をしていた。晶穂も本音はそちらに行きたかったのだが、サラや一香たちに「しばらく二人っきりだったでしょ?」と半ば強引にこちらのテーブルに連れて来られたのだ。

 一香は、ダクトが消えたことでずっとリドアスの封珠を守る必要がなくなった後も、リョウハンの下で修業をしている。師匠からの許可を得て、今日から一週間ほどリドアスに戻って来ているのだ。シンもまた修行に出たり、自身が封印されていた大樹の森の様子を見に行ったりといった過ごし方をしているが、一香と共に一時帰宅中だ。今はユーギたちとはしゃいでいる。

「で、さあ」

「わっ」

 友人たちの会話を何となく聞きながら食事をしていた晶穂は、サラの顔が目の前にあったことに驚いて箸を取り落とした。幸い床には落ちずにテーブルに転がっただけで済んだそれを拾い上げ、晶穂は若干引き気味に「……何?」と親友に尋ねた。

「『何?』じゃないよ、何じゃ!」

「いや、そのハイテンションは何なの……」

「サラさん、引かれてる」

「分かってるよ、一香! でもね、これは女子トークとして絶対訊かなきゃいけない論題なんだよ」

 ぐっと拳を握り締めるサラに呆れ顔を向けつつ、晶穂はどうしたのかと聞く。一香はもう諦めたのか傍観モードだ。

「どうしたのもなにも……訊いていい?」

「急に小声だね……。何を訊きたいの?」

 途端に何かを逡巡するサラは、少し頬を染めて晶穂にこう尋ねた。

「……この休みの間、進展はあった?」

「は?」

「だーかーらー、リン団長とはうまくいってるのかって聞いてんの!」

「……っつ!」

 晶穂は飲んでいた緑茶が気管に入ったらしく、ごほごほと激しく咳き込んだ。だがそれで誤魔化されるサラではない。この手の恋愛トークは大好物だ。いくらでも食べられる。それが近しい友人のものであれば尚更だ。矢継ぎ早に問いを発する。

「手、つないだ? デートは? 抱きついてみた? それからぁ……」

「ちょ、ちょっと待って!」

 今や顔を真っ赤に染めた晶穂は、向かいに座るサラの口を塞ごうと懸命に手を伸ばしていた。その手をのらりくらりとかわしたサラは、きししと笑みを浮かべて懊悩する晶穂を眺め見た。

「で?」

「は、話すからっ。音量下げて」

「はいはい」

 にやにや顔のサラを恨めしげに見つめてから、晶穂は小声でこの約五日間のことを語った。

 食事の作り合いと些細な日常会話の一部。そして市場で暴漢から救われたこと、それから水族館での初デートまで。晶穂は問われるままに、心臓の音を耳元で聞くような気持ちで話した。

「……で、水族館で、手、つなげて。……すっごく嬉しくて」

「やっっっと手つないだのかぁ……」

「そんなにためなくても」

 晶穂が赤面のままぼそりと突っ込むが、それを意に介さず、サラは再びずいっと迫った。

「……キスは?」

「……………はっ!?」

 茹でだこのように顔から湯気が出そうなほど真っ赤になった晶穂は、ブンブンと左右に頭を振った。

「む、無理ッ。そんな、大胆な……」

「仕方ないです、サラさん。団長と晶穂さんですから」

「……全くフォローになってないよ、一香」

「あら、そうです?」

「……まあ」

 サラは頬を両手で押さえている親友をチラ見して、軽く息をついた。

「……団長は、狼にはなり切れないよねえ」

「?」

「あ、こっちの話。気にしないで、晶穂」

 独り言で放たれた言葉は、サラの隣に座る一香にしか聞こえていなかった。

 晶穂たちが食堂を辞したのは午後十時を回った頃だ。年少組が去ったのは午後八時から九時の間だが、大学生や社会人の年齢の人々はトークで盛り上がったり酒宴を開いたりとそれぞれに楽しんでいた。

 五日間外に出っぱなしだったのにいいのかなあ、と大人たちを心配しもしたが、ジェイスによれば明日も夏日で仕事にはならないだろうから構わない、ということだった。

 晶穂はシャワーを浴びて髪を乾かしたことまでは覚えているのだが、それ以降の記憶はない。どうやらベッドで寝落ちたらしい。

 そんなことをぼおっとした頭で考える。そして、サラたちと話していた時に偶然目が合ったリンのことを思い出した。

 彼は少し驚いた顔をしたが、すぐにわずかに目尻を下げた。それは、きっと晶穂にしか分からなかった小さな変化だ。晶穂もそれに笑顔で応えた。そんなやり取りがカップルの秘密のように思えて、晶穂は横になったままで寝返りをうった。そうして恥ずかしさを逃がしていた時、昨晩サラに言われた一言を思い出す。

『……キスは?』

「……っ」

 悶える、とは今の自分のことだと晶穂は思う。

 キスなどしたことはないとあの場では言ったが、晶穂には覚えがある。古来種との戦いで傷つき気を失ったリンに、晶穂は一度だけしたことがある。思い出すだけで顔が焼けそうに熱い。あれを、誰にも話してはいない。リンにさえ。

 絶対に、秘密。

 眠気が失われ、部屋着に着替えた晶穂は体の熱を冷まそうと自室を抜け出した。




 リドアス内を歩いていると、どの部屋からも寝息が聞こえてくる。少しの間の空白期間だったとはいえ、懐かしく感じる。そんな感慨にふけりながら足が向いたのは、中庭だった。

 静かな庭には、朝日が差し込みつつあった。真夏とはいえ、日本ほど熱帯夜になることは少ないソディールは、朝が涼しい。風が吹くからだ。

 戸を開けて吹き込む風を感じていた晶穂は、人の気配を感じて庭を見回した。

「……リン?」

 そこにあったのは、ベンチに背中を預けて眠りこけるリンの姿だった。黒いTシャツとズボン姿、そして隣に愛用の剣が立て掛けられていることから察するに、早朝の鍛錬の後休憩していたら眠ってしまったのだろう。

 規則的な寝息を聞きつつ、晶穂はそっとリンの隣に腰かけた。矛を出して鍛錬をしてもいいのだが、それではリンを起こしてしまう危険がある。

(もう少しだけ、この寝顔を見てても罰は当たらないよね?)

 いつもの冷静な大人っぽい表情とはまた違う、少し幼さを残した寝顔。普段見せない横顔に、晶穂はしばし見惚れていた。

 それから何分が経過しただろうか。ふとリンの瞼が震え、ゆっくりと開かれていく。リンはその視界に晶穂がいることに驚いた様子もなく、ただ安心した表情で頭を晶穂の肩に預けてきた。そのまま再び目を閉じる。

「!」

 硬直してしまった晶穂は、必死に頭を回転させる。リンはきっと覚醒はしていないのだ。今も再び寝入ってしまった。しかし。

(……う、動けない。一ミリも)

 肩から心臓の鼓動が隣に聞こえてしまうとは思わない。けれど、この熱は伝わってしまいそうだ。

 どっくんどっくんと脈打つ血液を感じつつ、晶穂は緊張とは反対の安堵も同時に感じていた。


「……ん。寝てたのか」

 朝日が眩しい。

 自分は朝の鍛錬の後に寝入ってしまったらしい。夏とはいえ早朝の外は肌寒い。失敗したなと反省したリンは、ふと自分が頭を預けていたものがベンチではないことに気付いた。

「……っ、あき、ほ」

 隣で寝息をたてているのは晶穂だ。薄茶色の動きやすい短パンと若草色のTシャツ姿の彼女は、いつからそこにいたのだろうか。どうやら肩を貸してくれていたらしいが、その事実がリンを人知れず赤面させる。

 大概、人が近付けば眠りから覚める。神経は常に起こしたままでいる。何があるか分からないからだ。そんなリンが、一度も目覚めずに晶穂に頭を預けていた。自分が信じられなくなりそうなほどのショックだ。

 と同時に、それほどまでに自分が彼女を信頼しているのだとも思う。

 信用と信頼は違う、とリンは思う。

 明確な差があるわけではないが、リンは心からのつながりを信頼と呼べると思っている。

(……俺は、晶穂を信じてるってことだな)

 わかり切ったことだ。心底、大切なのだから。何にも代えられない。

 リンは晶穂の柔らかな髪をすき、頭を軽く撫でた。目を伏せる。

「……ごめん。また、お前を巻き込む」

 銀の華は、リンたちの居場所だ。同時に、華は初代が探し求めたものだ。

 いつか探し出したいと願っていたそれに、手が届くかもしれない。

 そして、それを悪用しかねない不穏な連中も動き始めた。

 願いを叶える花。意思を持たないそれは、どちらにでも転ぶ。善にも悪にもなる。何を善とし、何を悪とするかは人それぞれだ。

 リンにとっての善は、仲間たちが笑っていられること。悪は、彼らが恐怖に染まること。

 善を守るために、また走り出さなくては。

 ―――再び、戦わなくては。

 きっと、争いとなる。ジェイスも克臣も巻き込む。もしかしたら、ユーギやユキ、春直、エルハをも。

 リンは中庭から見える建物内の掛け時計を見た。もうすぐ六時。朝食の時間だ。

 リンは影を落としていた表情を改め、晶穂の肩を揺すった。

「起きろ、晶穂。飯食いに行くぞ」

「ん……?」

 欠伸をしながら目覚めた晶穂は、目を思い切り見開いた。

「わあぁぁっ! ……リ、リン。おはよ……?」

「……ああ、おはよ」

 リンは決意を胸に秘め、微笑んだ。

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