第108話 帰宅

 人が、多い。

 水族館開館最終日ということは分かっている。それでもこの人出は何なのだ。

(……子供連れは当然として、カップルも多い気がする。やっぱり、みんなあれを見に来てるのかな?)

 晶穂は人ごみを縫い、先を目指した。

 一つ目の部屋を通り過ぎ、二つ目。リンとはぐれたのは六つ目の展示室だ。

 三つ目と四つ目をつなぐ渡り廊下がもうすぐだ。リンも自分を探してくれているなら、そして同じように順路を辿っているのなら、この辺りで会えると踏んでいた。

 人波を縫って速足で、半ば走るようにして進んで来た晶穂は、荒い息を整えようとスピードを落とした。

 その時だった。

「きゃ」

 前から来た誰かにぶつかってしまった。尻餅をついてこのまま倒れてしまう、と覚悟した。しかし衝撃は来ず、代わりに大きく温かいものが晶穂の手を包んでいる。誰かが咄嗟に手を取ってくれたようだ。こちらを案じる声が上から聞こえてきた。

「……大丈夫、ですか?」

「あ、はい……え……」

「……晶穂?」

 晶穂が顔を上げると、驚いた顔をしたリンがまじまじと彼女を見つめている。急に恥ずかしくなって、晶穂はぶんぶん手を振ってリンの手を振り解こうとした。

 しかし、リンは離そうとしない。じっと、晶穂の目を見る。

「え……と、リン? どうし……っ」

 晶穂が「どうしたの」と問う前に、リンは彼女の手を引いて立ち上がらせ、そっと空いていたもう片方の手を晶穂の頭に乗せた。ゆっくりと労わるように、彼女の髪をすく。

「あの、リン……。手、つないだまま、だよ……?」

「……だめなのか?」

 ぎゅっと握られた手が熱くて、晶穂は息を呑んだ。勇気を振り絞って、額をリンの肩に預ける。ふと、周りの喧騒が聞こえなくなった気がした。

「……嬉しい、よ。ずっと、こうしたいと思ってたから」

「……そうか」

 感情の見えない平坦な声色。恐る恐る見上げた晶穂は、リンが安堵の混じった穏やかな表情をしているのを見つける。それは、晶穂を心の底から安堵させるのに十分な笑みだった。


「こっちだよ、リン!」

「引っ張るなって」

 人の群れの中からようやくお互いを見つけた二人は、ある展示室を目指していた。

 出口直前の部屋に入ってすぐ右に曲がると、小さなスペースが設けられていた。四畳くらいのスペースに、小さな水槽が置かれている。少し照明を落とした室内は、薄暗い。水槽をライトアップする淡い青色の光が神秘的な雰囲気を創り出している。

「……これは?」

 リンが水槽を覗き込むと、小さな魚が二匹泳いでいる。タンポポのような鮮やかな黄色の体に、ドレスのように広がった尾ひれが特徴的だ。尾ひれが広がっているのは片方のみで、もう片方の魚の尾びれは大きくない。こちらがどうやらメスらしい。ということは、この魚たちはつがいなのだろう。

「リン、初めて見る?」

「ああ。こんなきれいな魚もいるんだな」

「……うん。この展示がね、今回の目玉なんだって」

「目玉?」

 首を傾げて振り返ったリンは、そこにいた晶穂に耳打ちをされ、次いで赤面した。晶穂も耳を染めている。

 ―――この魚はね、生涯相手を変えないんだって。だから、大切な人と一緒に見ると、ずっと一緒にいられるって伝説があるんだよ……。

 顔を真っ赤にしてしどろもどろになりながらも、晶穂はそう説明した。つないだままの手に力を少しだけ入れ、彼女はリンを見上げて微笑んだ。




 二人っきりでの留守番を始めて五日目の朝。

「たっだいまぁ」

 ユーギの元気な挨拶がこだまして、にわかに騒がしくなる。

「おかえりなさい、みなさん」

「ああ、帰って来たのか。おかえり」

「ただいま~、兄ちゃん!」

 ユキに抱きつかれ、リンは軽くよろけた。それでも弟の頭を撫でて笑っている。

 ジェイスや克臣、その他の仲間たちも次々とリドアスに戻って来た。

「よう、リン。元気だったか?」

「克臣さん……ちょっと焼けました?」

「まあ、海でずっと遊んでたからね、克臣は」

「そんなことないぞ! 釣りしたり泳いだり獲物捕まえたりしてただけだ」

「それを遊ぶというんだ。世間ではな」

「きっついな、ジェイス」

 変わらない幼馴染同士の気の置けないやり取りをひとしきり見学し、リンは自室に戻った。晶穂はユーギたちに取り囲まれている。キャンプでのことを聞かされているのだろう。

 リドアスの至る所で様々な音が響く。荷解きに子供のはしゃぐ声、それを制する親の声。子供の興奮はそう簡単には静まらない。あと数日、夏休みが終わる頃になれば落ち着いて来ることだろう。それまでは、この賑やかさが続く。

 机に向かいペンを取っていた時、遠慮がちにドアがたたかれた。ドアの向こうから声がする。

「リン、入るよ?」

「はい、どうぞ」

 がちゃり、と扉を開けて入って来たのは先程帰宅したばかりの克臣とジェイスだ。

「お二人とも、荷解きはまだなんじゃ……」

「何言ってんだ、リン。俺らが帰って来て、もう三時間は経ってるぜ」

「え」

 カラカラと笑われ、リンは卓上時計に目を向けた。確かにこの部屋に戻って来た時間は午前九時過ぎだったのに、今見れば時計の針は午後十二時半を指そうとしている。

 唖然とするリンを見て、ジェイスは彼の頭を軽くたたいた。

「何か、没頭してたのかい? ……これは」

「はい。父さんが遺したメモの内容を、俺なりにまとめ、更に調べたものです。……とはいえ、それほど記述が増えているわけではないんですが」

「……銀の華、か」

「ジェイスさん?」

 ジェイスは呟くように溜め息をつき、「実はね」とキャンプ地でエルクという青年と出会ったことを話した。彼が話してくれた銀の華にまつわる伝説についても。

「……彼はトレジャーハンターだ。単なる噂や伝説でも、それが宝に通じるならば、嘘か真実かくらいは調べ上げるだろう。エルク以外にもこの幻の花を探し求める輩がいつらしいしね」

「俺も、何処かに銀の華かあるんだろうと思う。ジェイスからエルクってやつの話を聞く限りは、な」

 ジェイスと克臣の言葉に頷いたリンは、自身も銀の華を狙うトレジャーハンターの一味らしき人物と出会ったことを話した。アゴラと名のったその男がリドアスの中庭に侵入したと聞き、克臣は驚きの声を上げた。

「マジか! そいつ、相当な手練れじゃねえか……」

「うん。リドアスの防御には力を入れてきたつもりだけど、もう一度見直す必要がありそうだ。ダクトもここから己の意識を飛ばして行動していたことだし、補強しておくよ」

「お願いします。今日は落ち着かないでしょうし、銀の華のことを含めて動き出すのは明日で良いと思います。……晶穂が、みんなをもてなすんだと張り切ってました、から」

「……お前、最後の方の声、ちっちゃ過ぎ」

 克臣にからかわれ、リンは照れ隠しにそっぽを向いた。

 微笑ましくその様子を見ていたジェイスは「忘れてたよ」と部屋の入口近くにある小テーブルに近付いた。その上に置かれたお盆を取ると、リンに差し出す。

 そのお盆の上には、卵サラダのサンドイッチとトマトときゅうり、レタスが挟まれたサンドイッチが二つずつ置かれていた。その隣には紅茶がグラスに一杯。何かとリンがジェイスを見上げると、

「晶穂がね、リンにって」

「え……」

「お前が調べものに集中して昼ごはんも忘れてるだろうから。そして邪魔になるから話をしに行く用事のあるわたしたちに、と預けていったんだ」

 よく気の利く、いい子だな。

 珍しくジェイスにからかわれ、リンは目を泳がせて乱暴にサンドイッチを取ってパクついた。

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