第99話 手帳
「海へ行こうぜ」
「唐突だな」
全ては克臣とジェイスという幼馴染コンビの会話から始まった。
大学も夏休みに入り、日本の海は海水浴客でいっぱいだと聞く。ソディールも偶然か日本と同じく四季があり、同じ季節を同じ時期に巡らせる。だから、この世界も夏真っ盛りだ。
冷静なツッコミをするジェイスに「だってさ」と仕事帰りの克臣が言う。
「獣人のやつら見てみろよ。この状況で、何かあっても誰も動けないぜ?」
「……この過酷なソディールの夏場に事を起こそうという馬鹿はいないと思うが」
日本で言う所の、最高気温四十度手前は当たり前。暑いという話ではないのだ。日に当たっていると肌がひりひりとする。
歴史書を紐解いてみても、何か重大事件が起こるのは専ら春か秋である。冬も冬で寒く雪も多量に降るため、行動には向かない。
獣人は皆、自室やホールで体を冷やすためにあれこれと試している。アイスクリームやかき氷を量産している者もいれば、冷房の前に陣取って動かない者もいる。氷の魔力を持つユキは重宝がられ、魔法で冷気を発生させればアミューズメントパークのアトラクションかとツッコミを入れたくなるような人だかりが出来る。
「だからだろ?」
克臣が半袖シャツの第二ボタンまでを外しながら言う。暑いと言いながら手でぱたぱたと自分に風を送る。
「今のうちに避暑地に遊びに行こうぜって話。毎年とは言わんけど、先代の時も夏場は数日遊びに行ってたじゃん。北の雪山とか南の海とか」
「……どっちも、ここ最近トラブルが起きた所だがな」
「ああ言えばこう言うなぁ、ジェイス」
「危険を未然に防ぐのがわたしたちの仕事だ」
計画を否定された克臣は、目に見えて項垂れた。それを横目に見つつ、ジェイスが唇を緩める。
「……何時、わたしが駄目だと言った?」
「え?」
「決めるのはわたしじゃないからな。現実の話を一々しただけだ。我らの団長殿に聞いてくれ」
「それもそうだな」
くしゃりと笑った克臣は、「海!」「雪!」と元気にさえずり始めた獣人の子供たちに背中を押され、ジェイスと共に銀の華団長がいるであろう彼の自室の扉をたたいた。
「いるか、リン?」
「―――はい、どうぞ」
中からは特に大きな物音はしない。大方、書物でも読んでいたのだろう。ジェイスと克臣が入ると、案の定リンは机に広げた書籍と格闘していた。
「リン、それは?」
「大学の課題ですよ、克臣さん。さっさと終わらせておきたかったので」
「真面目だなぁ、リンは。まだ夏季休暇始まって一週間も経ってないぞ」
「……ここでは何があるか分からないんで。出来るだけ早く、身軽にしておきたいんです」
それで、何かご用ですか。ページを読むのを中断し、リンが二人に尋ねた。
「克臣が、海か山に行きたいんだそうだよ、リン」
「ああ、そうなんだ。みんな暑さでへばってるし、夏休みだし、いい気分転換になると思うんだが、どう思う?」
「……いいですね。でも、山は止めませんか? 一波乱あった直後ですし。海の方が、まだ安全かと」
「的確だね」
ジェイスが微笑む。
古来種との全面対決は終息したが、未だに古来種の中にはリンたちに敵愾心を持つ者がいるとしてもおかしくない。その者達に襲われれば、非力な子供たちの命は保障されない。そう考えるのは当然だった。
海も海で狩人との戦いの記憶はまだ新しいが、あの組織は解散し、ボスたる悪神はこの前消した。もう心配はないはずだ。
「じゃ、海だな」
全員を連れて行くのなら、当然宿泊場所の確保が難しくなる。人数が多い。リンがそう言うと、ジェイスはにこりと笑った。
「きっと獣人は、綺麗に整備されたホテルの部屋よりも野宿が良いんじゃないかな?」
「え……部屋じゃない方が?」
「ああ。彼らの半分は獣だ。たまには獣らしく外で寝るのも気持ちがいいと思うよ。わたしもテントなんかを張って過ごしてみたいし」
真夏の昼間は冗談のように暑いが、日が沈んでしまえば冷気が心地よく流れてくるのがソディールの気候の利点だ。
「じゃあ、キャンプ場を探すだけで事足りそうだな! 早速調べてくる」
そう言うが早いか、克臣はリンの部屋を出て行った。端末を利用して空きを探すつもりなのだろう。克臣の行動の速さに苦笑していたリンは、ジェイスに呼ばれた。
「何です?」
「リンは、行くかい? キャンプ」
「そうですね……」
リンは言葉を切ると、机に引き出しから一冊の本を取り出した。本と言うよりも手帳と言っても差し支えないサイズのそれは、古ぼけて、所々紙が破れている。濃い緑色の表紙が重厚感を醸し出していた。
「昨日、これを図書館で見つけました」
「それは?」
「……父、ドゥラの手帳です」
「……初代、の?」
こく、と頷き、リンはゆっくりと慎重にページを開く。
そこにあったのは、大きな文字と小さな文字が混在するページだ。大きな文字で書いていたら書く場所がなくなり、仕方なく小さな文字で続きを書いているといった印象だ。そんな大胆でそのくせそそっかしい男の一部が垣間見える気がする。
一枚一枚、ページをめくっていく。どのページも同じようなものだ。びっしりと文字が敷き詰められている。偶に地図らしき絵もあるが、それはごく一部だ。
ある個所でリンの手が止まる。ジェイスは彼が指差した場所に顔を近付けた。
「分かります?」
「うん……読めるよ。えーっと『銀の華のありか』……ドゥラさんは見つけてたのか」
ジェイスは目を見開いて、ページを注視した。
「……『ようやく見つけた。長年探し求めてきた銀の華のありか。伝説を手掛かりに探してきたが、候補地がある。来週の休日に家族と共に向かう。きっと、ホノカも驚く』か。日記みたいだな。日付は……初代たちが消える数日前だね」
「ええ。文章がここで終わっていることから考えても、そう考えるべきでしょうね。父は、手がかりをつかんでいたみたいです。……ジェイスさん、伝説については?」
ジェイスは首を横に振る。リンは「そうですか」と嘆息した。
「何も知らずに申し訳ないね」
「いえ。俺もこの夏を利用して調べ尽くそうと思っていたので、問題ありません」
「じゃあ、リンは海には行かない?」
「はい。ここを無人にするわけにはいかないですから。なので、皆さんのことをお願いします」
「任せて。克臣のお守りも含めてやってくるよ。……そうか、リンは残るのか」
「ジェイスさん?」
リンはうんうんと微笑みながら頷くジェイスを気味悪く見た。その視線に気付き、ジェイスは意味深に笑みを浮かべた。
「ちょっと面白いことを思いついてね。……ああ、いや。何でもないよ」
「……そう、ですか?」
リンが何を企んでいるのかと尋ねようとした矢先、賑やかな音をさせて扉が開いた。
「あったぜ、リン。南の大陸にあるキャンプ場! ……どうした?」
「いえ」
端末の画面を間近で見せられ、リンが何となく笑みを浮かべた。端末を手に取り、表示されたサイトを閲覧する。
そこに元気な踊る文字で記されていたのは、南の大陸の海の広告だった。キャンプも可能で、小さな砂浜ならば貸し切りも出来るとか。
爽やかで美しい海と空の画像は、克臣の心を十分につかんだようだ。町からある程度の距離もあり、騒ぎがいもありそうである。
「折角だから、真希と明人も連れて行こうと思ってる」
「家族サービスですか?」
「たまにはやらねえと、へそ曲げられるからな」
困った顔をして言う克臣だが、その表情が楽しそうであることは、誰も指摘しなかった。
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