第98話 秘密

「落ち着いたか?」

「……うん。ごめんね、こんなところで」

「別に」

 晶穂は涙で汚してしまったシャツを気にしたが、リンはハンカチを遠慮した。

「ここを通れば着くし。着替えりゃいいし。……お前だから、構わない」

「っつ」

 何度目かの赤面をした晶穂の頭を撫で、リンは柔らかく微笑んだ。晶穂の手を引き、扉を開いてその中に飛び込んだ。

 ソディールは夕暮れ時だ。何人かの小学生が駆けて行く。その中にいた狼人の少年がこちらに気付いて手を振ってきた。

「団長、晶穂さん!」

「ユーギか」

 リュックを背負ったユーギが大きな耳をぴんっと立てて走って来る。晶穂は赤くなっているであろう目元を気にしたが、それはもう後の祭りだ。耳も目もいいユーギは、晶穂の赤い目とすんっという鼻をすする音を聞き逃さなかった。

「晶穂さん、泣いてたの?」

「え……あー、泣いてたっていうか」

「ちょっとあってな。ユーギ、晶穂を少し休ませる。夕食の時間になったら呼んでくれないか?」

「了解です!」

 リンの指示を素直に聞き入れ、ユーギは友達とリドアスに駆けて行った。

「行くぞ」

 そう言って、リンは晶穂の手首を取って引いた。玄関から入るのかと思いきや、リンは裏口を開けた。

 あまり使われることのない裏口は、リンの部屋のすぐそばにある。ここは朝親に怒られて正面から帰るのが気まずい子供や、帰りが遅くなり過ぎたメンバーが使用することが多い。

 そんな利用者と自室前で遭遇しやすいリンは、子供なら早く仲直りするようアドバイスし、真夜中に帰宅した者には軽く説教をする。とは言っても仕事で遅くなったのなら仕方がないことなのだが。

そもそもリドアスにて寝起きする者は数少ないため、ほとんどそんなことはしない。心構えだけだ。

 そんな裏口を通り、リンは真っ直ぐ廊下を横切って自室に入った。その手は晶穂の手首を掴まえたままだ。

「……座れよ」

「うん」

 すとん、と椅子に座り込んだ晶穂の目の前にマグカップが差し出される。その中身はよく冷えた水だ。ソディールには際限なく湧き出る湧水が幾つもあり、その一つがリドアスの傍の泉にもあった。

「おいし」

「ここの水はうまいよな。………で?」

「え?」

「何で、泣いた? 理由がなきゃおかしいだろう」

「……」

 晶穂は視線を彷徨わせた。左右に揺れる瞳を凝視していたリンは、はあ、と息をつく。椅子の傍に置かれた自分のベッドに腰を下ろすと、無遠慮に晶穂の髪をわしゃわしゃと撫で回した。

「どうせ、俺のファンクラブだかを自称するやつらに警告でもされたんだろ? あいつら、俺が誘いを断った腹いせか……次こんなことがあったら、覚悟させねえとな」

「……リン、何かに誘われたの?」

「ああ。夏休みに遊びに行かないか、とさ。瞬時に断った。俺はそんなに暇じゃねえ」

「……だよね」

 大学にいる全ての人はきっと知らないが、リンは普通の大学生ではない。ソディールという異世界で、銀の華の団長を務める多忙な人物なのだ。

 リンが問答無用で誘いを断る場面を想像してしまい、晶穂はくすりと笑みを漏らした。それを素早く見つけたリンが相好を崩す。

「ようやく、笑ったな」

「……反則」

 晶穂は赤面してうつむいた。リンの普段の印象と言えば、冷静・クール・無表情という表現が当てはまる。大学のファンクラブもそれを見て黄色い声を上げている。

 しかしそれは、リンのごく一部でしかない。晶穂に見せる顔の中に、今のような安堵と無邪気さを併せ持つような破壊力のある笑みがある。目を細め、口端を少し上げるその表情は、女子なら誰もが一発でケーオーするだろう、と晶穂はいつも思う。

 晶穂のうつむいた顔を不思議そうに見つめていたリンは、コトンと自分のカップを机に置いた。

「大丈夫。……俺のこんな顔、他の誰かに見せてなんてやるもんか」

「っつ」

 晶穂はいつの間にか隣に立っていたリンに抱きかかえられている現状を把握出来なかった。待ってという間もなく、リンの隣に座らされる。そのまま背中から肩を抱かれ、体が密着する。全身が心臓になってしまったようだ。逸る音が五月蠅い。

リンは空いた手で晶穂の手を握り締めた。

「……お前が落ち着くまで、こうしててやる」

「……ん」

 見上げれば、リンの顔にも赤みが射している。自分だけではないと悟り、晶穂は己の心がふわりと軽くなるのを感じていた。

「……寝た、か」

 安心しきった顔で眠ってしまった晶穂を起こさないように、リンは軽くため息をついた。

 少し前から晶穂への当たりが強い女子が数人いることは知っていた。大学でもそうであるし、ソディールでも偶に見かける。

 ジェイスによれば自分は他人から見てかっこいい部類らしい。正直、自分ではよく分からない。分かっていると自画自賛するのも違うと思われる。

(大学に行くって決めた時、必要上の交友関係は持たないって決意してたのにな)

 リンは熱くなった肩に意識が向かないように水を飲んだ。灰色の長い髪が冷房の風に遊ばれている。顔にかかるそれを指で流してやった。どうしても目が吸い寄せられる。自分の変化に困惑しつつも、リンはそれを心地よくも思っていた。

 地球から見て異世界の人間であるリンは、日本という異世界を言わば研究対象として興味深く感じていた。だからこそ、ソディールとは違う刺激を求めて日本の大学に経歴を少々詐称して入ったわけだが。

 こんなに愛しくなるとは、自分でも青天の霹靂だ。使い方が当たっているか心もとないが、兎も角思いもよらなかった。

 克臣には面白半分でキスはまだかと急かされる。そんなことが出来ると思っているんですか? と半ば叫んで問い返すと、まさか、と返された。

「お前の性格上、きつけないとしそうにないからな」

 というのが克臣の言だ。ぐうの音も出ない。

 この前晶穂のアイスを横取りした時も、内心死ぬほど恥ずかしかった。夏の暑さにやられて冷たいものを欲していたのは欲していたのだが、あれのせいで体温が五度は上がった気がする。しかし、よく分からないが晶穂に構いたかった自分がいた。

 誰にも言ってはいないが、一度だけ、しかも本人の許可を得ずにしたことがある。その時のことを思い出すと顔から火が出そうだ。魔女から彼女を救うためとはいえ。その後何も言われたことはないから、晶穂本人も知らないのだろう。その方が、自分の心の平穏もある程度続く、とリンは苦く微笑んだ。

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