第97話 親衛隊
日本の夏は暑い。毎年のことながら、リンはつくづく感じている。ソディールも中部と南部は同じようなものだ。しかし北の大陸という万年雪の避暑地もあるため、夏場はそちらが賑わう。
しかしながら、北には最近良くない思い出ができた。可能ならばしばらく足を踏み入れたくはない。
「……あいつを危険な目に合わせられない」
「あっ、氷山くん!」
「氷山先輩っ?」
ぼそり、と独り言ちた直後、背後から数人の女子学生の声が響いた。リンは一つため息をついて首だけ背後を振り返った。
「何か?」
温度の低い声音だったにもかかわらず、何人かが頬を染めて目を逸らした。いつもリンを追いかけて来る同学年の女子二人組を先頭に、五、六人が束になっている。正確な人数を数えるのも面倒で、リンは眉をひそめた。
それをどう受け取ったのか、先頭に立つ女子が「あのね」と問いかけてきた。
「氷山くん、夏休みに予定入ってる?」
「……何で」
「あの、私たち、みんなで海に行こうって話してて。男子もいた方が楽しいだろうってなって。氷山くんの他にも何人か声かけてるんだ。……どうかな?」
「……悪いんだが、俺は行かない。やらなきゃいけないことがあって」
「そ、そっかぁ。残念」
本気で残念そうな女子たちを置いて、リンは次の講義がある十五号館へと歩いて行った。
その背中を見送り、女子の一人が目を潤ませた。
「あの噂、ほんとなのかな?」
「てっちゃん、あんなの根も葉もない噂だって」
「でもぉ、見たって子もいるし」
てっちゃんと呼ばれた女学生は、リンが歩み去った方を見て息をつく。
てっちゃんと友人の会話を聞き、他の女子大生が話に加わってきた。
「ね、噂って何?」
「知らないの? リン先輩、彼女がいるんじゃないかって」
「うそぉ! 泣く子多そう!」
「だよね~」
「……それって誰なのかな?」
「何か、よく一緒にいる女がいるんだって……」
「ええぇっ、ショック」
後輩達の旺盛な好奇心に刺激されつつも、先輩二人はその不毛な会話を制しにかかった。
「ほらほら、もうすぐ講義始まるよ」
「あなた、次小テストって言ってなかった?」
「あ、まっずい」
「早く行こう!」
「では、先輩。また後で!」
ぺこりとお辞儀をし、慌ただしく駆けて行く後輩たちを見送り、先輩二人は顔を見合わせた。彼女らは晶穂が大学に入学した当初、リンに近付かないよう注意した二人だ。
「……あの子、かしら」
「もう一度、お灸をすえておくべき?」
「……私たちに目をつけられたらどうなるか、知らせておく必要がありそうね」
ぎらり、と二人の目が光った。
誰のものでもないリンを愛で、アイドルとして騒ぐ。誰か一人のものにすることは禁じる。……通称氷山リン親衛隊トップの彼女らにとって、あの少女の存在は、許されざるものであった。
自分たちで決めたルールに縛られる己をあざ笑われているような気がして。
晶穂は午後三つあった講義全てを受け終わり、帰り路につこうとしていた。正門に近付いた時、正門を通って左に曲がるリンの姿が見えた。
「あっ……」
声をかけようか迷う。しかし人目が多過ぎた。
リンも晶穂も、リドアスにいる人々以外には自分たちの関係性の変化を話してはいない。リンは自分のファンクラブが大学にあることを知っており、大学内に晶穂とのことが広まれば、彼女に危害が加えられるかもしれないと心配していた。だから晶穂も大学の友人たちには何も話していない。
(こんな所で話しかけたら、リンにも迷惑かけちゃうか)
晶穂がリンを呼び止めるのもその反対も、人目がほぼなくなってからだ。それはソディールにつながる扉が設置されている裏道や路地であることが多い。
少しでも長く二人でいられたらと思い、晶穂は少しずつ足早になる。
そんな彼女の腕が後ろから乱暴に引かれたのはその時だった。
「……!」
突然の出来事に声も出ない。目を門外にやると、リンの姿はもうなかった。
「ふふふっ。よかった、捕まって」
笑いを含んだ声を聞いて振り返れば、何度か出会ったことのある先輩二人組だった。
驚きを隠せない晶穂の腕を引き、彼女を壁際に追い込む。人目につきにくい場所を選んでいることがわかる。無言で行われるそれを咎める声は聞こえない。二人は構内でも有名なのか、誰も目を合わせようとはしない。
「あの、何かご用ですか……?」
「何かご用か、ですって?」
「あらあら。
わずかに身を震わせる晶穂を真正面から睨み、彼女たちは笑った。
ひとしきり笑った後、一人が追い詰められた晶穂を更に追い詰めるかのように手を晶穂の背後の壁に置く。所謂壁ドン状態だ。
「……噂があるんだよね」
「噂?」
「そう。……氷山くんに彼女がいるっていう噂」
「え……」
「あなたなんじゃない?」
ひた隠しにしてきたはずの二人の関係性。それが噂とはいえ知られていることに、晶穂は少なからず衝撃を受けた。しかしそれが事実だと知られるわけにはいかない。晶穂はしらばっくれることにした。
「そんな話、わたしに言われても。嘘だとも本当だとも言えないです」
「ふうん……」
ねめつけてくる視線が痛い。それでも晶穂は知らぬふりを続けた。リンに迷惑をかけるわけにはいかない。ひんやりとした汗が背中を伝って行く。
問答が何度か続いたが、晶穂から目ぼしい回答を得られないと判断したのか、二人は晶穂の拘束を解いた。
「いいわ。もう」
「……では、失礼します」
足早に去って行く晶穂を見つめ、少女達は視線を交わした。十分な警告にはなった、と。
先輩達から逃れ、晶穂は獣から逃げるうさぎのようなスピードで正門を飛び出した。
はあはあ、と荒い息を吐きながらいつもの路地へと向かう。周りを見る余裕などなかった。
あと数メートルで路地の入口だ。もう追われない。そう思い安心した直後だった。
「えっ!?」
突然手首を掴まれ、急停止する。うまく体のバランスが取れず、晶穂は尻餅をついた。
否、つきかけた。
「……どうした、晶穂?」
「……リ、ン……」
転びかけた晶穂を助けたのは先に帰ったはずのリンだった。
晶穂は背中から抱きとめられているという現状を十秒ほどかけて把握すると、顔を真っ赤にして跳び上がった。
「ご、ごめんなさいっ」
「いや、いいけど……。何かに追われてたのか? 物凄く切羽詰った顔してたが」
「……そうじゃ、ないよ」
ゆるゆると首を横に振り、晶穂は先輩達の言葉を思い出していた。
『噂があるんだよね』
『氷山くんに彼女がいるって』
『あなたなんじゃない?』
(……わたし、好きな人と一緒にいちゃいけないの?)
ぎゅっと目を瞑り、疼く胸に手を添える。その手が何かに包まれた気配がして、晶穂はのろのろと目を開けた。
「どうした、晶穂? 顔色悪いぞ」
「……!」
目の前にリンの心配そうな顔があった。晶穂の手は大きなリンの手の中に握られ、もう片方の手で額の熱を計られている。晶穂は驚きと羞恥で顔を真っ赤に染めた。
その様子に当てられたのか、リンの顔もみるみるうちに赤くなる。ぱっと手を放し、明後日の方向を向いた。
「あ、いや……。お前が調子悪そうだったから。っていうか、ああ……え?」
リンがびっくりした顔でこちらを凝視している。何事かと思った晶穂は、自分の両目の端から大粒の涙が流れ落ちていることにようやく気が付いた。
「あ、あれ?」
「~~~っ」
「だ、大丈夫、大丈夫。どうしたんだろ、いきなり……!」
「喋るな」
リンは晶穂の手を優しく引き、路地に入った。人目につくのを避けるためだ。
そして改めて晶穂に向き直り、彼女の涙を手で拭ってやった。それから躊躇した後、晶穂の体を引き寄せた。
一度止まった涙が再び流れ出す。晶穂は表通りを通る人に聞こえないよう気を配りながら、静かに声を殺して泣いた。
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