幻花編

キャンプとふたりきり

第96話 アイス

「あ~つ~い~~~」

 誰かが、皆の心中を代弁する。

 梅雨が過ぎ、季節は真夏へと移行していた。

 そうは言っても九月も近い。それなのにこの暑さはどうなのだ。

 最高気温は三十度をゆうに超える。日本でさえそうだ。そして、異界であるソディールもまた、暑かった。

 リドアス内は冷房代わりに魔力で冷えているのだが、弱冷車のようなものだ。冷えてはいるのだが、それでも何処からかむわっとした暑い空気が忍び込んでくる。

 獣人には辛い季節。今も館内でより涼しい玄関ホールに獣人達が集まっている。その中には狼人であるユーギや描人の春直達の姿もあった。ユーギはマットレスの上に伸びている。

 そこにやってきたのはアイスを何本も入れた保冷バッグを抱えた三咲晶穂。長い灰色の髪をポニーテールにして、根もとに水色のシュシュをつけている。

「みんな、大丈夫?」

「あ……晶穂さん……暑い……」

「倒れてるだろうと思って、棒のアイスたくさん買ってきたから」

「アイス!」

「食べたいです!」

「ぼくも」

「わたしもぉ」

 ユーギと春直を皮切りに、ホールで幾つもの手が挙がる。その手の主一人一人にアイスを手渡し、晶穂はくるりと首を巡らせた。

「あれ、サラは?」

 銀の華で一番の友人である描人のサラの姿を探すが、見つからない。暑がりの彼女がここにいないことを訝しく思ったが、その疑問はすぐに解けた。アイスを口に入れて少し元気を取り戻した狼人の少年が答える。

「サラさんなら、エルハさんのとこに行ってますよ」

「……そっか。ありがと、ユーギくん」

 きっと店の手伝いだろう。それにサラとエルハは恋人同士だ。その仲を邪魔するほど晶穂は愚かではない。誰もが涼しさを求める中で、あの二人に近付くのは自殺行為だ。

「晶穂さん、大学は?」

 そう尋ねてきたのは、ある事件がきっかけで銀の華にやって来た春直だ。

 彼が暮らしてきた村は、古来種と呼ばれる一族によって滅ぼされた。行き場を失った春直は、自らここで暮らすことを希望したのだ。

 晶穂は春直の傍に座り込むと、自分の分のアイスの封を切った。

「お休み、ではないよ。でも講義は午後からだから、午前中はここにいようと思って」

「そうなんですね~。ぼくら獣人は、夏場使いものになりませんから、学校なんかは休みです」

「……みんな伸びきってるもんね」

 晶穂は苦笑交じりに頷いた。リドアスのそこかしこで暑さに負けぎみの獣人たちをたくさん目にする。吸血鬼とも呼ばれる魔種や人間はまだいい。獣人は体毛が多く、暑さを逃がしにくいのだという。体毛というか、耳や尻尾がふっさふさなのだ。

 現在午前十一時半。午後の講義は午後一時から。十二時半には向こうに行っておかないとな、と晶穂が思っていると、廊下の方向から人一人分の足音が聞こえてきた。

 その足音だけで、晶穂の心臓が速まる。

 振り向けずにいると、廊下近くで座り込んでいた唯文が気付いて声を上げた。

「あ、団長」

「おお。……みんな、辛そうだな」

 やってきたのは、日に当たると藍色にも見える黒い短髪の青年・氷山リンだ。

 リンは晶穂の後ろまでやって来ると、すっと顔を寄せた。

「その色、バニラか?」

「え……あ、うん」

「一口くれ」

 そう言うが早いか、背後から晶穂のアイスを一口かじった。食べかけだったそれを三分の一程度食べられ、晶穂が非難がましく睨みつけると、リンはふっと微笑した。

「……自分の分、自分で取ったら?」

「お前の食べる方が早い。それに、そういう棒アイスは甘ったるくて一本はいらん」

「我儘」

「何とでも言え」

 楽しそうに言い返すと、リンはふわりと晶穂の頭を撫で、そのまま行ってしまった。無意識に手を伸ばしかけた晶穂は、直後に自覚して慌てて手を引っ込めた。

 一部始終を見ていた克臣が、楽しそうに近寄って来る。

「リンのやつ、彼氏っぽいな。……どうした、顔が真っ赤だぞ、晶穂?」

「えっ……そ、そんなことないですっ。あ、用事があるので部屋に戻ります。大学に行く準備するのでっ」

「おお。いってら」

 アイスの入った保冷バッグを克臣に預け、晶穂は逃げるようにして自室に駆け込んだ。

 その様子を見送っていた克臣を、壁に背中を預けたジェイスが苦笑気味に見つめている。

「なんだ、ジェイス?」

「きみのおふざけは見飽きているけど、リンがあんなことをするようになるなんて思いもよらなかったよ」

「それは俺も。まあ、あいつは照れ屋だからな。あれが人前で出来る最大限だろ。見ただろ?」

「ああ、見たよ。晶穂に背を向けた途端、顔を真っ赤にしてたからな」

 くくく、と喉を鳴らしたジェイスは、克臣の手から保冷バッグを奪い取った。

「あ、何しやがる」

「何しやがる、ではないだろ。仕事の合間をぬって真希ちゃんに会いに来たんだろうけど、そろそろ戻らないと不審がられるぞ」

「……分かってるよ」

 克臣の妻子である真希と明人という大切な存在が、今リドアスに滞在している。

 古来種からの襲撃を恐れての処置だったが、今ではその心配はない。それでも二人はここに滞在し続けている。

 理由として、夫であり父である克臣のもう一つの実家のような場所がリドアスであることが大きい。また、真希たちもこのリドアスと銀の華という居場所を気に入っていた。真希は晶穂やサラを始めとした若い女性達と仲良くなり、明人もたくさんの遊び相手を得て楽しそうだ。

 本人は決して口にしないし、周りも見て見ぬふりをしているが、克臣は真希にべた惚れである。克臣は出来る限り彼女から離れてくないらしい。これまで銀の華に入り浸っていた反動だろうか。しかし、仕事となれば話は別だ。

 あいつらをよろしくな。そう呟いてジェイスに託し、克臣は仕事用の鞄を取ってリドアスを出て行った。


「……び、びっくりした」

 晶穂は自室に走り込むと、ばたんと扉を閉めた。その扉に背中を預け、ずるずると座り込む。

 心臓が痛い。リンに触れられた頭が熱を持っている。手に持ったままの棒アイスは、もう溶けかかっていた。

 それを食べてしまわないといけないのは分かっているが、晶穂の頭の中では躊躇いがある。

「だ、だって。間接………ひゃあぁ」

 その言葉を発するのも辛い。恥ずかしい。でも食べないのは作った人に申し訳ない。

 葛藤の末、晶穂は一口でアイスを口の中に溶かしてしまった。

 ベタベタしている指を備え付けの水道で洗い、ハンカチで拭く。

「……はぁ」

 大学に行く準備をするとは言ったが、晶穂がすべき支度は昨夜のうちに終わっている。鞄を一瞥し、ベッドに腰を下ろした。

 リンと晶穂が交際を初めて二か月が経過しようとしている。

 その間、恋人らしいこと――例えばデートなど――をしたかと聞かれれば、ノーと答える他はない。

 古来種との戦闘の後始末と大学のあれこれに追われていたのだ。試験勉強に割かれた時間も多い。そして何より、二人が二人きりになるのを躊躇ったこと、そして邪魔をするものが多過ぎたことも理由となっている。

 言ってみれば、二人とも照れているのだ。

 照れることは、いけないことではない。しかし、触れることが少ないことは寂しい。

「身勝手だな、わたし」

 自分も恥ずかしいのだ。自分から手をつなごうとも出来ない。それまで恋愛経験は皆無だったのだ。許して欲しい。

 晶穂はリンに触れられた髪を撫でた。彼の体温が残っているような気がして、心まで温かくなる。

「サラに、後で話してみよ……」

 まずは登校しなければ。リンも午後から講義だと言っていた。

 晶穂はショルダーバッグを手に取り、大学に向かうために扉を開けた。

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