第93話 あたたかな想い
誰かが、自分を呼んでいるような気がする。何度も、何度も。声が枯れるくらいまで。
「だれ、だ……?」
問いかけても、答えは返ってこない。ただ、どこまでも続く暗闇があるだけだ。
自分の名は、分からなかった。自分が何故ここにいるのかも思い出せない。
それでもいいか、とも思う。
きっと、そうすれば、もう傷付くこともなければ、誰かを泣かせることもない。そこまで考えて、はた、と気が付く。
「……俺は、誰に泣いてほしくないんだ?」
胸の奥が疼く。痛みを発する。それは、忘れたくない大切な、初めて感じる、温かな感情。
青年は声がする方へ、一歩踏み出した。
「……!」
目を覚ましたと同時に上半身を起き上がらせた。がばり、と音がしそうな勢いで。
薄暗い部屋は見覚えがある。青を基調とした部屋の家具それぞれにも。リンはほっと息をついた。
すると気を失う前までの記憶が一気に蘇ってくる。
「そうだ、クロザはっ? ダクトはどう…………っつ」
寝かされていたベッドから降りようと足を動かそうとしたが、何か重りがある。何かと見れば、眠っている少女の顔があった。眉間にしわを寄せ、うなされているようにも見える。
「……晶穂……」
もしかして、ずっとここにいてくれたのか?
リンは愛しげに晶穂の頭を撫でてやった。すると、晶穂の寝顔が穏やかなものへと変わる。その寝顔をかわいいと思ってしまい、独り内心で焦るリンであった。
「……って、今、何日だ?」
気を取り直し、晶穂を起こさないようにベッドを這い出たリンは、テーブルの上に置いてあった小さなカレンダーを手に取った。ユキが福引で当ててきたというそれは、月毎に紙をめくっていくタイプのものだ。
出発日と古来種の里に到着した日を確認し、ふと同じテーブルにあったデジタル時計に目をやる。そこには時刻と共に日付も表示されていた。
日付は、里に着いてから三日後となっている。思わずショックを受けたリンは、晶穂が寝ていることを忘れてベッドにどすんと腰を下ろした。
「……俺は、二日は寝てたってことか……」
「……ん?」
目を擦りながら、リンの傍で晶穂が身じろきをした。リンがびっくりして硬直している間に、晶穂はぼおっとした目をリンに向けて、その目を一瞬で覚醒させた。ぼろぼろと涙がとめどなく流れていく。
「お、おい」
「よかった。起きたんだ、リン……。心配で心配で、このまま起きなかったらどうしようって、思って」
「あ……」
「みんな、大丈夫だって言ってたけど、里から帰って来ても目覚まさないし」
「あき……」
ふえぇぇ……。
とうとう泣き出してしまった。泣きじゃくる女の子をなだめた経験のないリンは、半ばパニックになりつつ視線と両手を宙に彷徨わせる。
自分が泣かせているのは百も承知だ。ここで気の利いた一言でも発することが出来ればどんなに良いかとも思うが、残念ながら自分にはそんなスキルはない。
「~~~っ。くそっ」
リンはどうも出来ずに彷徨っていた拳を握り締め、優しく晶穂の体を自分に引き寄せた。頭をぽんぽんと撫でるように叩いてやり、背中にもう一方の腕を回す。
「!!?」
突然の出来事を把握出来ず、晶穂は体を固まらせる。涙が急停止する。自分に何が起こったのか。温かで固いものが自分を取り囲んでいる。それの心地良さが、心臓の五月蠅さが、晶穂を現実に引き戻す。おずおずと名を呼んでみた。
「……リン?」
「……ああ」
「―――おかえり」
「………ああ」
それだけで、十分だ。
晶穂は自分の両手をリンの背中に置いた。それだけで、伝わる体温が上がった気がした。
ドクドクと激しく高鳴るこの音が、どちらのものかも分からない。それでも晶穂は、リンが戻ってくれたこと、それ以上に望むものはないと心から思う。自分の想いが口からふと出ないように、注意しなければならないほど、晶穂は自分が満たされている気がした。
「……」
きっと、物音を聞きつけた誰かがもうすぐこの部屋の扉を叩く。リンにはそんな予感があった。ただでさえ耳聡い獣人の多い場所なのだ。それまでに平常心に戻らなければと思うのだが、溢れてくる想いをどうしようもなく持て余す。自分の体温が急上昇している気がする。リンは自分の腕の中に収まる小柄な少女を見、目を閉じた。
どれくらいの時間が経っただろう。リンは「なあ」と晶穂に呼びかけた。
「え? ……あ、ご、ごめんっ。何やってるんだろ、わたし。ごめん、重いよね? す、すぐ
あわあわとリンを引き剥がし、晶穂は真っ赤な顔で立ち上がりかけた。そのまま部屋を出ようとする彼女の手首を、リンは咄嗟に掴む。その瞬間、晶穂はバランスを崩して再びリンが受け止める形になった。
「ひゃあっ。ほんと、ごめんっ」
「聞け」
「ふあっ?」
じたじたと動く晶穂の両肩を掴み、自分の方を向かせる。正視してお互い再び赤面するが、もう構っている余裕はなかった。リンは一息で吐き出す。廊下まで声が届かぬよう、声をひそめて。
「……好きだ」
「……!」
晶穂は目をめいっぱい見開いて、じっとリンの顔を凝視する。今、何を言われたのか頭が追いつかない。パニックになっていた頭の中が少しずつ冷え、それと同時に心臓がちぎれそうなほど高鳴る。何か言わなければと思うほど、呂律は回らない。
「わ、わたし……。わたしも」
「うん」
「……わたし、リンが、好き、です」
ゆっくりと、瞳に涙が溢れてくる。想いが通じ合ったのだ、とお互いが本当に理解するのには、それほど時間はかからなかった。
リンはほっと息を洩らし、晶穂を抱き締める腕に力を込めた。
「……よかった。同じで」
「うん……」
涙でぼやける視界を一生懸命晴らそうとするが、晶穂の意思に反して涙はどんどん溢れ出す。声を詰まらせながら、晶穂は再び口を開いた。
「……大好き、だよ」
「……ん」
リンと晶穂。お互いの熱を感じ合いながら、ジェイスが扉を開ける直前までそのまま抱き締め合っていた。
「ご心配、おかけしました」
リドアスの冷房の効いた食堂で、リンは頭を下げた。
北の大陸の雪景色が嘘のように、この中部は暑い。短い梅雨は過ぎ、本格的な夏が訪れようとしていた。
テーブルには、冷えた麦茶と水饅頭が人数分置かれている。リンの向かい側には克臣とジェイス、ユーギ、サラ、エルハが座り、リンの左右には晶穂とユキ、春直らが腰を下ろしていた。
なかなか頭を上げないリンを見かね、ジェイスが声に笑いを含んで呼びかけた。
「リン、顔を上げなさい。みんな心配はすれど、怒ってなんかいないんだから」
「そうだぞ、リン。お前のせいじゃない。全ての発端はダクトの野郎なんだからな」
「……ジェイスさん、克臣さん。そう言ってもらえるとありがたいです。でも、事の終わる時に失神してたんじゃ、団長としては面目が……」
「真面目だねえ、リンくん」
悔しげに言葉を濁すリンに笑いかけたのはエルハだ。彼は今回の事件に直接かかわることはなかったが、サラを始めリドアスに残った面々を文里らと共にまとめてきたのだ。彼の恋人であるサラも猫耳をひくひくと動かしながら、にっこりと微笑む。
「そうですよ、団長。無事晶穂を取り戻してくれましたし、結果オーライじゃない?」
「うん、そうです。……ぼくの家族や村の人たちも、きっとほっとしてると思います。古来種の野望を止めて、改心させたんですから」
「……許してくれるといいんだけどな」
春直の故郷は、ダクトの思惑に惑わされたクロザたちが壊滅させてしまった。それは覆しようのない事実だ。クロザはツユを救う目的のためとはいえ、してはいけないことに手を出した。
クロザはゴーダたちと共に、北にある里に残っている。ツユの意識は晶穂のお蔭か戻り、リハビリをしている。クロザはダクトに騙されていた際の行動全てを反省し、これからはソディールを守る組織として、銀の華と協力していくことで決まった。
人を傷つけ続けてきた罪は、人を助け続けていくことでも償いきれるものではない。それでも、少しでも後世の憂いをなくしたいというクロザの意志でもあった。時折、リン達と行動を共にすることもあることだろう。
甘いな、とは思う。けれどリン個人にとって、果たすべき目的は達した。今はそれでよかった。
報告し終わってほっと息をついたリンの耳に、ジェイスの笑いを含んだ声が聞こえてきた。
「で、二人に進展はあったのかな?」
「えっ」
「ふえっ」
同時に叫び、同時に顔を真っ赤に染めた。それを見て、外野もにやにやと笑みをこぼす。頬を手で押さえて口もきけない様子の晶穂をちらりと見、リンは意を決して彼女の手を取った。「え」と驚く晶穂を無視し、手を引いて立ち上がらせる。心臓が五月蠅い。リンは晶穂の手に指を絡ませ、そこに座る全員を見渡した。
「……俺、自分の気持ちに決着をつけました。俺は、晶穂が好きで……晶穂も、俺を好きだと言ってくれました。……だから、その……」
「ああ、付き合うことになったわけだ」
きっぱりと言い切ったのは克臣だ。リンは思わず脱力し、晶穂に支えられてしまう。
「そ……そういうことです」
「は……はい」
晶穂もリンに同意するようにうんうんと激しく頷く。
そろそろいじられる初心者カップルがかわいそうになり、エルハが助け舟を出した。
「ま、決着ついてよかったじゃない。今は、この事件が解決したお祝いでいいんじゃないかなぁ?」
「ははっ、そうだね。リンも全快したことだし、今夜は宴会といこうか」
ジェイスの号令で、慌ただしくセッティングがなされていく。
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